私たちの認知は、思っている以上に一貫した構造を持っています。その基本には、「何かが存在する」という仮定があります。たとえば、何かを見たとき、私たちは「そこに何かがある」と無意識に思い込みます。誰かの言葉を聞けば、「誰かがそれを言った」と受け取ります。このように、私たちの認知は常に「存在」を前提にして動いています。
これは、コンピュータのオペレーティングシステム(OS)に似た構造として理解できます。OSがハードウェアの上に仮想的な「世界」(アイコン、フォルダ、ウィンドウなど)を構築するように、人間の意識も感覚情報を統合して「存在する世界」を構築します。言い換えれば、人間は「存在を仮定するOS」を搭載しているのです。

存在を仮定するOS
私たちは日々、ものごとが「そこにある」と感じ...
体験から抽象化
興味深いことに、仮定された「存在」は、私たちが経験を記憶し、意味を引き出す過程では徐々に背景に退いていきます。たとえば、「私はリンゴを食べた」という具体的な経験から、「リンゴは甘い」という一般化された関係性を抽出します。このとき、「私」という主語の重要性は薄れ、リンゴと味覚の間にある普遍的な関係だけが残ります。
この抽象化のプロセスは、数学における関数の働きと類似しています。関数 f(x) = x + 1 では、xがどんな値でも「入力に1を足す」という関係だけが重要です。人間の認知も同様に、主観的な体験を「入力」として受け取り、関数的な処理を通じて普遍的な意味や法則を「出力」します。
この観点から見ると、人間の認知とは次のようなプロセスであることがわかります:
- 主観的な体験を存在として仮定する
- その体験から主語的要素を除去する
- 関係性を抽出して普遍的な意味を生成する
この構造があるからこそ、私たちは個別の出来事から普遍的な知識を得ることができるのです。
意味生成機としての人間
では、なぜ私たちはこのような構造を持っているのでしょうか。それは、人間が単に情報を受け取る存在ではなく、積極的に意味を生成する存在だからです。より正確に言えば、「意味を生成してしまう構造を持つ存在」なのです。
この意味生成の機能には、進化的な意味があると考えられます。環境の中で生存し、繁殖するためには、個別の体験から普遍的な法則を学習し、将来の状況に適応する必要があります。「この植物は毒がある」「あの動物は危険だ」といった知識は、具体的な体験から抽象化された関係性として記憶され、新しい状況での判断に活用されます。
存在仮定の限界
しかし、この「存在を仮定するOS」には限界もあります。私たちは原理的に、仮定された存在が真に実在するかどうかを判定することができません。これは現代において深刻な問題となっています。
たとえば、ディープフェイク技術による詐欺は、まさにこの「存在仮定OS」の弱点を突いたものです。精巧に作られた映像や音声に対して、私たちは自動的に「そこに誰かがいる」と仮定してしまいます。同様に、AI技術が発達した現在、チャットボットとの対話においても、つい相手を「存在する誰か」として扱ってしまう傾向があります。
これらの現象は、私たちの認知システムが基本的に「存在」を前提に設計されていることを示しています。真実と虚偽を常に疑いながら判断するよりも、まず存在を仮定してから関係性を学習する方が、一般的には効率的だからです。
瞑想と認知構造
通常の意識状態では、この「存在仮定OS」はあまりにも自然に働くため、それが仮定であることすら気づきません。しかし、瞑想のような実践を通じて、その働きを観察することが可能になる場合があります。
たとえば、呼吸に意識を向けていると、「私が呼吸している」という主語的な感覚が薄れ、「呼吸がある」というより単純な現象の観察に変化することがあります。このとき、誰がそれを体験しているのかという「主語」が一時的に背景に退き、現象そのものの関係性だけが残ります。
このような体験は、普段は見過ごしている認知の仕組みを、別の角度から観察する機会を提供します。存在の仮定、主語の生成、関係性の抽出といった一連のプロセスが、いかに自動的で無意識的であるかが実感されるのです。
関係性としての現実理解
このような観点に立つと、世界の見方が変化します。「存在」とは認知によって仮定されたものであり、より本質的なのは、そこにある関係性なのではないでしょうか。物理学においても、素粒子は「もの」というより「相互作用のパターン」として理解されるようになっています。同様に、私たちの経験する現実も、固定された「存在」の集合というより、動的な関係性のネットワークとして捉えることができるかもしれません。

相互作用を「物」と見る脳
私たちが日常的に「存在」と呼んでいるものは、実際には...
このような視点から見ると、私たちの知覚、記憶、思考、そして意味のすべてが、ある種の「装置」として働いていることが見えてきます。それは情報を単純に処理するだけの装置ではなく、積極的に意味を生成し、関係性を発見し、理解を深めていく装置です。
意味生成機としての人間性
以上の考察から、人間とは本質的に「意味生成機」であることがわかります。私たちは単に環境からの刺激に反応する受動的な存在ではありません。むしろ、存在を仮定し、関係性を抽出し、意味を創造する能動的なシステムなのです。
この理解は、人工知能の発達や仮想現実技術の普及といった現代的な課題を考える上でも重要です。私たちの認知システムの特性を理解することで、それらの技術とより適切に付き合う方法を見つけることができるでしょう。
同時に、この理解は私たち自身の体験をより深く理解する手がかりも提供します。日常的な体験の背後にある認知的な構造に気づくことで、私たちは自分自身の意味生成のプロセスをより意識的に観察し、理解を深めることができるのです。
人間という意味生成機は、今日も無数の体験を関係性に変換し、世界への理解を深め続けています。その仕組みを理解することは、私たち自身をより深く知ることでもあるのです。

意味を生成し続ける存在として生きる
人間にとって「生きる」とは、現代生命科学が明らかにしつつある...

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