意識と信仰

2025/04/02

column

自己の意識は、自己の経験を通じてのみ生まれるため、他者の意識を直接確認することはできない。したがって、他者が意識を持つかどうかを確信する手段は存在しない。この問題は「哲学的ゾンビ」として知られており、私たちは直感的に他者も意識を持つと考えるものの、それを論理的に証明することはできない。「哲学的ゾンビ」とは、表面的には意識や感情を持つ人間と同じように振る舞うが、実際には意識や感覚を持たず、プログラムされた行動を実行するだけの存在である。例えば、自分の全ての感覚器官が完璧なセンサーに置き換えられ、全ての感覚が外部からコンピューターで制御される仮想現実を想像してみよう。全ての現象が実世界と同じように振る舞うようプログラムされている場合、私以外の登場人物は全て「哲学的ゾンビ」となるだろう。

哲学的ゾンビ - Wikipedia

仮想現実か実世界かにかかわらず、他者の意識は確認できない。それでも私は、他者にも意識があると信じたい。まず、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉のように、私自身が「哲学的ゾンビ」ではないと確信している。そして、他者も同様に「自分もそうではない」と考えるだろう。しかし、私自身は、自分自身について確信できても、他者については確信できない。あるいは、他人が全員「哲学的ゾンビ」である可能性を考える人もいるかもしれない。しかしそれは恐ろしく孤独な世界だ。だからこそ私は他者にも意識があると信じたい。

ルネ・デカルト - Wikipedia

ルネ・デカルト - Wikipedia

最近、「他者にも意識があると信じる」という行為こそが信仰の本質ではないかと考えるようになった。伝統的な宗教では、多くの場合、「神」や「仏」が超越的存在として信じられてきた。しかし科学の進展によって世界の成り立ちが説明され、「神の領域」は狭まりつつある。このような状況下で、「神仏」への信仰は不要になるかもしれない。それでもなお、人々は何かを信じる必要がある。それは信仰が単に「神仏を信じること」ではなく、その背後にある「人間性を信じること」だからではないだろうか。

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人間性とは、生物学的特徴ではなく、他者との関係性から生まれる「慈悲」「誠実」「愛」「智慧」といった概念である。これらは孤立した個人では成り立たず、関係性の中で初めて生まれる。つまり、人間が生きること自体が関係性の中で存在することであり、それは意識とも深く結びついている。

私は「意識とは創発現象であり、記憶や経験から生まれる関係性の産物である」と考えている。この考え方に基づけば、意識を信じることは「関係性そのものを信じること」に他ならない。「慈悲」は情けや憐れみ、「誠実」は正直さ、「愛」は大切なものへの思慕、「智慧」は道理を知り適切に行動する能力であり、いずれも関係性から現れる性質だ。したがって、他者の意識を信じることは他者との関係性を信じることであり、その中でこれらの「人間性」が必要となる。そして、人間は単独で生きるのではなく共同体を形成し、その価値を信じることで社会とのつながりを維持している。このような意味で、「人間性」を基盤とした宗教的実践とは、人間が本来持つ関係性に従って生きることだと言えよう。

伝統的な神仏信仰もこうした関係性の象徴として機能してきた。神仏への信仰が人間同士の関係性や道徳的な生き方を促進してきたのであれば、それはすなわち人間性への信頼と言えるだろう。

では、神仏のような超越的存在なしに私たちは関係性そのものを信じられるだろうか。人間の現状を踏まえると、それは難しいだろう。むしろ、私が求めているものは、「神仏を通して人間性を信じる宗教」である。それは特定の神を信じることではなく、人間らしく生きるために必要な関係性への信頼である。この視点から宗教を「人間が本来持つ関係性に従って生きるための方法・思想」と再定義できるかもしれない。

私は、自分自身の意識を通してしか世界を認識できない。しかし、他者の意識を信じることで関係性の中で生きることができる。この「信じる」という行為こそ私にとっての信仰なのだ。

従来までは「神の領域」とされた生命や意識など多くの謎が科学技術によって解明されつつある。しかしたとえすべての「神の領域」が科学的に解明されたとしても、人間が「他者の意識」を信じ続ける限り、「人間性」を基盤とした宗教は存続し続けるだろう。

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