私たちは日々、ものごとが「そこにある」と感じながら生きている。目の前に机がある。空が青い。音楽が聞こえる。そうした体験のすべては、「存在している何か」が「自分に感じられている」というかたちをとっている。しかし、それは本当に“そこにある”のだろうか。私たちは、何かを「ある」と感じるその仕組み自体に気づいていないのかもしれない。
以前の記事では、意識には〈自己と他者を区別する仕組み〉があり、その区別によって「意味」が生まれるという考察を行った。そしてそれは、世界が認識される方法を決定づけるような、ある種の基本的な構造のように感じられる。今回はその構造を、「存在を仮定するOS(オペレーティングシステム)」として捉えてみたい。

意識のクオリア
意識とは何か、という問いは、科学、哲学、宗教それぞれの...
たとえば、コンピュータのOSは、ハードウェアの上に「世界」を構築する。アイコンやフォルダ、ウィンドウ、カーソル……私たちが触れているのは、物理的なチップではなく、それらをまとめあげた「仮想的な現実」だ。人間の意識もまた、五感や記憶などを統合しながら、「これは存在している」「これは自分ではない」といった区別を脳内でつくり出す。そのときの「存在する」という形式そのものが、意識をつかさどるOSによって仮定された結果なのではないかと考えられる。
たとえば、誰かの話し声が耳に入ったとき、音の波だけが存在しているわけではない。私たちはそれを「誰かがそこにいる」というかたちで受け取る。物が見えるときも、「形や色がある」と感じるだけでなく、それが「何かである」として認識される。つまり、私たちの意識は、ただの感覚的情報を受け取るだけでなく、その背後に“存在”を自動的に仮定しているのだ。
このように、私たちは「ある」と「ない」を区別することができる。それだけでなく、「これは物質的な存在だ」「これは思考や感情だ」「これはフィクションだ」といった種類の違いさえ識別している。このときの基準はどこから来ているのか。それは、おそらく私たちの意識の奥底で機能している認識構造――すなわち「存在を仮定するOS」――によって、あらかじめ形作られていると考えると理解しやすい。
このOSは、視覚・聴覚・記憶などの入力を受け取り、それらを「存在する世界」として再構成している。こうしてOSが構築した世界は、私たちには“クオリア”というかたちで提示される。たとえば「赤い」「甘い」「痛い」といった主観的な感覚は、世界が「そこにある」と感じさせるための出力インターフェースとして機能しているのだ。
たとえば、「赤いリンゴがある」と感じるとき、そこには赤という色のクオリアがあり、丸い形や距離感とともに「そこにある」という実感が生まれる。この実感こそが、OSが出力した“存在の仮定”を私たちが実際に経験できるようにするクオリアの働きである。つまり、クオリアは「存在仮定のユーザーインターフェース」として、私たちが世界を「ある」として生きることを可能にしている。
さらに、現実には存在しない人工知能を利用した仮想現実上のキャラクターとの対話でも同じ図式が成立する。画面上に表示されるキャラクターの表情や言葉からキャラクターの存在を仮定し、まるで実在する人間に対するかのようにコミュニケーションできる。
こうして考えると、意識とは単なる情報処理装置ではなく、「存在」というフィクションを巧みに仮定し、それにリアリティを与える構造を備えたシステムである。そしてその中では、「自己」や「他者」といった概念さえも、脳内で構成された“存在の仮定”のひとつとして位置づけられる。意識の中に登場する“わたし”も“あの人”も、同じOSによって生成された仮構的存在なのだ。

意識の中の”自己”と”他者”
人間の意識とは、単なる主観的な体験ではなく、脳内...
そして、この「存在を仮定するOS」の下ではたらく意識では、「存在」が真にリアルかどうかを判定することは原理的に不可能である。アバターを利用したビデオ通話が本物との会話で、生成AIにより精巧につくられたビデオ画像と応答の組み合わせがフェイクであるとどうして見抜くことができようか。最近問題になっているディープ・フェイクを利用した詐欺は、「存在を仮定するOS」の弱点が利用されたものであるといえよう。
存在の仮定、意味づけ、自己と他者の生成、クオリアの役割――これらすべては、1つの仮想OS上で連動して動いているのかもしれない。もちろん、これは一つの比喩にすぎない。しかしOSという比喩が、意識の構造を理解するための有効な視点を与えてくれるのであれば、それは十分に意味のある仮定だと言えるだろう。
