仮定としての存在

2025/04/08

column

誰しも自分の存在を疑う人はいないでしょう。しかし、本当にそれは確実なのでしょうか。仏教の唯識思想によれば、私たちが理解している世界はすべて自分の心の中にあるものです。目の前にあるものが本当に実在していると、いつでも断言できるでしょうか。

現在認識している状態が実は夢の中だという可能性もあります。しかし重要なのは、夢の中であっても「関係性」は確実に存在するということです。亡くなった祖父母の夢を見て、その言葉が目覚めた後の行動に影響を与える経験をしたことはないでしょうか。これは、「存在」が不確かでも「関係性」は働いていることを示しています。

「存在」とは何か

ここで重要な仮説を提示します。私たちが「存在」と呼んでいるものは、本質的には「関係性」を理解するために意識が作り出した認知的な道具なのではないでしょうか。

具体例で考えてみましょう。「コップが壊れた」と認識するとき、物理的には「ある分子配置が別の分子配置に変化した」という出来事が起こっています。しかし私たちは、これを「コップという物体が存在し、それが壊れた」として理解します。つまり、変化という関係性を理解するために、「コップ」という存在を仮定しているのです。

この「存在の仮定」は、関係性を認識し、記憶し、他者と共有するための認知的な足場として機能しています。

思考が先か、存在が先か

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、この構造を示す興味深い例です。この命題は実際には「思考(関係性の認識)」が先にあり、その後に「我(存在)」が導かれるという順序を含んでいます。

つまり、まず「何かを認識する働き」があり、その働きを説明するために「それを行う主体」を仮定する、という流れです。関係性が先にあり、存在はその結果として立ち上がるのです。

意識の中の”自己”と”他者”

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視覚中心の認識

なぜ人間は「存在」を仮定しやすいのでしょうか。一つの理由は、私たちの認識が視覚を中心としていることです。

視覚による認識は「ある場所に何かがある」という空間的な形で世界を捉えます。これは「存在」を仮定する認識を強く促進します。一方、聴覚や触覚は、より関係性に基づいた情報処理を行います。

音楽に感動する体験を考えてください。音楽には形がありませんが、音と音の関係性、時間的な変化そのものに私たちは美しさを感じます。これは「純粋な関係性」を直接体験している状態に近いといえるでしょう。

感覚を超えた共通構造

興味深いことに、視覚に頼らない全盲の人々も、聴覚や触覚を通じて対象の「存在」を構成します。これは、人間の意識が感覚の種類を超えて、「関係性を存在によって構造化する」という共通の仕組みを持っていることを示しています。

この仕組みを「存在仮定のOS(オペレーティングシステム)」と呼ぶことができるでしょう。これは進化の過程で獲得された、生存に有利な認知システムだと考えられます。

存在を仮定するOS

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認識の限界

では、関係性を関係性のまま、存在を仮定せずに理解することはできないのでしょうか。

残念ながら、これは人間にとって極めて困難です。私たちの脳は「何かが何かに作用する」という形でしか情報を処理できないからです。関係性の場に「もの」を仮定し、その変動を観察することによって、関係を間接的に理解するしかないのです。

ただし、この限界を乗り越えようとする実践もあります。座禅や瞑想は、視覚的情報を遮断し意識を静めることで、「存在」への執着を手放し、「変化そのもの」を直接感じ取ろうとする試みです。

他者理解の壁

哲学者トマス・ネーゲルの「コウモリであるとはどのようなことか?」という問いは、この問題の核心をついています。超音波で世界を認識するコウモリの主観的経験は、視覚中心の私たちには根本的に理解不可能です。

これは私たちの「存在仮定のOS」の限界を示しています。異なる認識システムを持つ存在との間には、埋めがたい理解の溝があるのです。

「存在」を超えた理解

しかし、希望もあります。音楽、瞑想、深い共感体験などを通じて、私たちは時として「存在」を超えた「純粋な関係性」の世界を垣間見ることがあります。

もし「関係性だけで世界を理解する存在」(例えば、他の生物?宇宙人?)がいたとすれば、「存在を仮定しなければ理解できない」私たちの思考は、彼らには非常に奇妙に映るでしょう。逆に言えば、私たちの認識方法は数ある可能性の一つに過ぎないということです。

まとめ

人間の意識が「存在の仮定」によって構造化されているという認識は、二つの重要な意味を持ちます。

第一に、これは私たちの世界理解の限界を示しています。世界はより豊かで複雑であるにもかかわらず、私たちは自分の認知システムで「経験可能な範囲」でしか理解できません。

第二に、この限界を知ることで、より謙虚で開かれた態度を持てるようになります。自分の認識が絶対的ではなく、一つの可能性に過ぎないことを理解すれば、異なる視点への寛容さが生まれるでしょう。

「存在」は私たちにとって必要な認知的道具ですが、それが道具に過ぎないことを忘れてはいけません。この認識こそが、より柔軟で豊かな世界理解への扉を開く鍵となるのです。


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