私たちが世界を認識する方法は、自己の意識を通じた解釈に大きく依存しています。近世哲学の祖と呼ばれるフランスのルネ・デカルトの有名な言葉「我思う、ゆえに我あり」は、その認識の基盤を示したものですが、それを拡張すると「彼(女)を思えば、彼(女)あり」「神仏を思えば、神仏あり」と言うこともできます。つまり、私たちが他者や神仏を認識するとき、それは単なる外部の実在としてではなく、自己の意識の中で再構成されたものとして存在しているのです。

意識とは何か
「意識のハードプロブレム」という言葉を...
このことは、私たちが世界をどのように理解し、信仰をどのように形成するのかに深く関わる問題です。すなわち、神仏という存在は、個々人の過去の体験や内面の理想像に基づいて構築された「完璧な他者」として現れます。私たちは、自らが不完全であることを認識しており、その補完や理想としての存在を神仏に見出そうとします。しかし、重要なのは、神仏が客観的に存在するかどうかではなく、「存在すると信じる」という行為が、各人の内面でどのように再構築されるのかという点です。信じるという行為は、まさに自己の経験の中で「神仏」を再創造するプロセスと言えます。自己の経験のなかで「神仏」を再創造するとはどういうことでしょうか。これは、自分自身が神仏となるという意味では決してなく、自己の経験に照らし合わせて「神仏とはこのようなものだろう」と頭の中で考えることです。いわば、頭の中で神仏の様子を想像して、その振る舞いを「シミュレーション」するということです。
このように、私たちは自身の内面で、過去の体験や記憶をもとに神仏の姿や振る舞いを「シミュレーション」し、思い描いているのです。ここでの「シミュレーション」とは、スウェーデン人の哲学者ニック・ボストロムらによって提唱されたシミュレーション仮説のように、「コンピューターによって作り出された世界全体の仮想現実」を意味するのではなく、意識が現実を解釈し、再構成するプロセスの比喩として使われています。この再構成の過程は、個々人の経験や価値観に基づいて行われるため、たとえ同じ宗教を信じているとしても、その信仰の内容は細部において異なってくるはずです。
歴史的に見ても、宗教儀式や共同体での信仰体験を通じて、ある程度の共通基盤が形成されることは確かです。多くの文化において共通の象徴や物語が存在するのは、宗教的儀式や神話などを通じた共通の体験があったからこそです。しかし、その「共通の体験」もまた、各個人の内面で再構築されるため、過去の体験が完全に同一でない限り、完全な共有は原理的に不可能です。信仰のあり方が個々の「シミュレーション」に依存している以上、私たちの信じる神仏の姿は、それぞれ微妙に異なりうるのです。
この文章をここまで読むと、まるで「神仏は存在しない」と主張しているように思う人もいるかもしれません。しかし、この考えでは、単に「存在するか否か」を論じるのではなく、各人の内面においてどのようにその存在が再構築され、体験されるかに注目しています。すなわち、神仏が存在すると思う人は、内面にその存在を感じることによって信仰が成立し、存在しないと思う人は、内面における再構成の結果として神仏が見出されないという具合です。外部の「真の環境」と内面の認識が完全に一致する必要はなく、むしろ、不一致が生じた場合には、内面の世界観を修正するか、または外部の現実の影響を無視して自己の内面に固執するかという選択が迫られることになります。これは、かつてガリレオが天動説を唱えた時代に、観測された現象と既存の世界観との間に生じた乖離に類似した現象として捉えることができるでしょう。
このことは、宗教や信仰の根底にある対話の必要性を浮き彫りにします。もし各人が自分の内面で独自の「シミュレーション」を行い、そこで構築される神仏や理想像が固定されずに動的に変化していくならば、他者との対話を通じてそのズレをいかに調整するかが、信仰の本質となるでしょう。信仰の対話において重要なのは、単に異なる立場を並べることではなく、互いの内面の再構成を理解し、その違いを調整しようとする姿勢が求められます。
しかし、対話は決して容易なものではありません。異なる信仰を持つ者同士が、自らの信念を守りつつ、相手の信念を理解しようとすることは、多くの場合困難を伴います。歴史的に見ても、宗教的対立が激化し、暴力的な衝突に発展した例は数多く存在します。その原因の一つは、信仰の「シミュレーション」が各個人の経験に依存しているため、それぞれが自らの信仰を絶対的なものとして捉えやすいことにあります。
そのため、宗教の役割の一つは、信仰のズレを埋める対話を促すことにあります。異なる信仰を持つ人々が対話を通じて共通点を見出し、相互理解を深めることで、信仰は単なる個人的なものにとどまらず、共同体全体の調和をもたらす力となり得ます。これこそが、宗教が分断を生むのではなく、むしろ人々を結びつけるために存在しうる理由なのです。
私たちが神仏を信じるとき、それは単なる外部の実在としてではなく、自己の意識の中で形作られたものとして存在します。したがって、信仰を通じて生じるズレを調整するための対話は、宗教において不可欠な要素となるのです。その対話をどのように進めていくべきかは、今後さらに深く考察すべき課題でしょう。

自然法則と象徴の余白
どの生物も孤立しては生きられません。人間もまた、環境との...

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