私は「意識は記憶の蓄積による創発現象である」と考えている。この主張の根拠は、意識の性質と形成過程についての考察から導かれる。前にも同じ主張をしたが、その時は他の事象と絡めて議論していたので、若干物足りない議論となっていた。そこで、ここではこの問題にのみ焦点を絞って深掘りしてみたい。

意識とは何か
「意識のハードプロブレム」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。これは...
ここでは、意識を「あるシステムが内在するメカニズムによって記憶された情報に基づいて、自己と外部を自発的に区別できるようになる現象」と定義しよう。「内在するメカニズム」とは、生物の場合は神経回路とそれにつながる感覚器で脳などに記憶をためるような仕組みを指し、AIであれば外部情報を自律的に探索し、データを蓄積・統合する仕組みを指す。また、「自発的に」という要件は重要であり、単なるプログラムによる動作ではなく、自己の内部状態と外部の情報を動的に関連付けながら自己と外部を識別する能力を意味する。すなわち、「自発的」とは、外部を認識する明示的な方法としてあらかじめ与えられたプログラムに基づいて動作することではなく、蓄積した情報の統合から自己と外部の認識のメカニズムを後天的に獲得することを意味する。
意識は、単発の体験ではなく、無数の経験が記憶として蓄積し、それらが相互に関連づけられることで発生する。例えば、「痛み」は単なる神経の損傷による生理的反応ではなく、過去の類似した経験と結びついた結果として主観的に認識される。すなわち、火傷を負ったときの「痛い」だけでなく、「たき火をした」「危険だ」「熱い」「病院に行った」などという前後の経験とも結びつく。また、ほかにも異なる種類の「痛み」(例えば、腹痛や擦り傷、心的負荷による心の「痛み」など)の体験が無数に積み重なった結果、その人の「痛み」という意識が形成されると思われる。これは個人で独特の感覚であり、これこそ「主観的な体験」と呼べるものであろう。このような「主観的体験」は自分自身にはあるが、他人が理解したり感じたりできるものでは決してない。また、このような「意識」は、自己には必ずあるものの、他者にも存在するかどうかは確かめようがない。この結果、幻肢痛のように、生理機能的には障害のない四肢に痛みを感じることがあるのも、脳内に記憶された身体イメージが痛みの認識を作り出していることとなるだろう。これは、「物理的世界において、意識は何か特別なものではない」という唯物論的な視点と、「我思う。故に我あり。(私の意識だけは確実にある)」というデカルト的な確実性を統合した立場ともいえよう。

ルネ・デカルト - Wikipedia
また、就寝中に見る夢の存在は「主観的体験」が情報処理の結果にすぎないことを示唆する。夢の中で見たり感じたりすることは、実際には起こっていないにもかかわらず、現実のように体験される。例えば、高い場所から落ちる夢を見て、実際に体がビクッと動くことがある。このとき、脳は過去の記憶を組み合わせ、現実と錯覚するような体験を生み出している。もし意識が何か特別な実体を持つものであるならば、夢と現実を区別する明確な仕組みが必要だが、実際にはその境界は曖昧である。しかし、どちらも「主観的体験」であることに疑いの余地はない。
さらに、意識の進化的意義を考えると、記憶が蓄積し、適切な機構が存在すれば意識は必ず発生するに違いない。例えば、動物の中には高度な記憶と学習能力を持つものがいる。タコは非常に優れた問題解決能力を持ち、過去の経験を活かして道具を使うことすらある。このように、記憶を蓄積し、それを参照して行動を変化させる能力が高まるにつれて、より高度な意識が生じる可能性がある。すなわち、意識とは人間のみが享受する特別な現象ではなく、広範な生物が意識を持つ可能性を考慮する必要性がある。さらに、適切なメカニズムを内在すれば、AIのような人工物にさえも意識を宿らせることが可能だろう。
しかし、知識があれば必ず意識が生じるとは単純には言い切れない。蓄積した知識を統合・利用するメカニズムが重要であることは間違いないが、さらに、記憶された情報量にも閾値があると推測できる。これは、AIの発達においても見られる現象であり、学習量がある一定量を超えると急激に高度な文章生成能力が生まれることと類似している。例えば、初期のニューラルネットワークは単純なパターンしか認識できなかったが、大量のデータを学習することで、自発的に文脈を理解し、意味のある文章を生成できるようになった。このことは、情報の蓄積と処理の複雑さが、知能や意識のような現象を生み出す鍵である可能性を示している。また、蓄積された情報量についてのこのような閾値の存在は、意識と創発現象の関係を予感させるものである。
このような議論から、意識は何か特別な実体をもつものではなく、記憶と情報処理の結果として創発するものだと推定された。痛みや夢、学習のプロセスを考えれば、意識とは単なる情報の統合と再構築の産物にすぎない。この考え方は、意識のハードプロブレムに対する新たな視点を提供するとともに、意識の本質を理解するための重要な手がかりとなる。今後、意識という現象を科学的に明らかにするためにはさらなる科学の発展が必要であろう。本稿の視点からは、今後の課題が「自己意識を作り出すメカニズムを具体的に構築し、検証すること」となろう。この過程で、記憶の蓄積と情報処理の複雑さがどのように意識の創発に寄与するかを明らかにし、その中で「閾値」の存在も検証されるのではないか。「科学のメス」が意識を解き明かす日がいつかきっとやってくるに違いない。

意識と信仰
自己の意識は、自己の経験を通じてのみ生まれるため、他者の...
