人間にとって「生きる」とは、現代生命科学が明らかにしつつある生命維持のための化学反応の連鎖ではありません。私たちは日々の出来事に対して意味を生成し、その意味に喜び、あるいは苦しむ存在です。朝のコーヒーの香りに安らぎを感じ、友人との会話に楽しさを見出し、試験の結果に一喜一憂します。これらすべては、私たちが現実の出来事に対して独自の意味を与えているからこそ生まれる体験なのです。
この「意味生成」という営みについて、私は「人間を『意味生成機』として捉える」という視点を提起しました。この視点によれば、人間は本質的に意味を求め、創造し続ける存在として理解できるのです。

人間という意味生成機
私たちの認知は、思っている以上に一貫した構造...
意味世界の孤独
生成された意味は、個々の主観的体験に深く根ざしています。同じ夕日を見ても、ある人は美しさに心を奪われ、別の人は一日の終わりに寂しさを感じるかもしれません。この意味の違いは、それぞれの人生経験、価値観、その時の心境によって生まれます。そして重要なことは、この主観的に生成された意味は、他者には完全に理解することができないということです。
私たちはしばしば「わかってもらいたい」と願いますが、自分が体験している意味の全貌を他者に伝えることの限界を感じることも多いでしょう。言葉にした瞬間に、体験の豊かさの一部は失われてしまいます。この意味世界の根本的な孤独は、人間存在の条件の一つと言えるでしょう。
意味による苦しみ
ときに私たちは、自らが生成した意味によって苦しみます。失恋を「自分の価値の否定」と意味づけることで深く傷つき、失敗を「能力の欠如の証明」と捉えることで自信を失います。現実の出来事そのものよりも、その出来事にどのような意味を与えるかが、私たちの感情や行動を大きく左右するのです。
では、その苦しみから抜け出す方法はあるのでしょうか。ひとつ確かなことは、新たな経験や刺激によって意味は書き換え可能であるという点です。それは必ずしも学問的な知識に限りません。美しい音楽に心を動かされることで人生観が変わるかもしれませんし、自然の中で過ごす時間が現在の悩みを相対化してくれるかもしれません。また、異なる文化や価値観に触れたり、新しい人との出会いを通じて、これまで当然と思っていた意味づけが一つの可能性に過ぎないことを知るかもしれません。
新しい視点や感覚を得ることで、苦しみの原因そのものが変化しうるし、たとえ現実的な解決策が見つからなくても、意味づけが変われば苦しみの性質は確実に変わります。絶望的に思えた状況が挑戦として捉え直されたり、恥ずべき経験が成長の糧として再解釈されたりするのです。
変容への開かれた姿勢
ただし、この変容は他人が代行できるものではありません。意味を変えるには、本人が新しい経験や刺激に対して心を開こうとする意志を持つことが前提となります。どれほど美しい音楽や感動的な体験が目の前にあっても、本人が心を閉ざしていれば、それらは意味構造の深い部分まで届きません。主体的に受け入れる姿勢があってはじめて、外部からの刺激は自己の意味構造に働きかけ、変容をもたらすのです。
これは、教育や支援の限界を示すと同時に、人間の尊厳の根拠でもあります。私たちは最終的に、自分自身の意味世界の主人なのです。
経験する自由
逆に、他者が新しい経験や刺激に触れることを妨げること――すなわち、本人の意志を無視し、思考の自由や感情の動きを封じることは、その人の意味生成の可能性を奪う行為であり、倫理的に強く非難されるべきです。
これは単に教育の権利という次元を超えた問題です。情報へのアクセスを制限したり、芸術や文化に触れる機会を奪ったり、自然体験や人との交流を禁止したりすることは、その人が自分の苦しみを変容させる可能性を根本から断つことに他なりません。それは、その人の存在の核心部分への攻撃なのです。
現代社会では、様々な形でこうした自由が脅かされる場面があります。権威による一方的な価値観の押し付け、情報統制、表現活動の抑圧、感情の表出への制限などがそれです。しかし、人間を「意味を求め続けるマシン」として理解するならば、これらの行為がいかに人間性に対する根本的な侵害であるかが明確になります。
意味を生成し続ける存在として
生きるとは、意味を生成し、苦しみや迷いを経ながら、その意味を書き換え続けることです。この営みに終わりはありません。私たちは生涯にわたって、新しい経験と学びを通じて、自分の意味世界を更新し続ける存在なのです。
その営みの中心には、常に「経験を求める意思」があります。この意思こそが、私たちを単なる生物学的存在から、意味を創造する存在へと押し上げる原動力です。私たちは、自分のためにも、他人のためにも、この経験する自由を守らなければなりません。それは、人間であることの基本的な条件を守ることに他ならないのです。
なぜなら、経験する自由を奪われた時、私たちは意味を生成する能力を失い、ただ与えられた意味に従うだけの存在に成り下がってしまうからです。そのような状態は、もはや人間的な生き方とは言えないでしょう。真に人間らしく生きるということは、最後まで自分なりの意味を求め、創造し続けることなのです。
だからこそ、私たち一人ひとりが意識すべきは、自分自身が経験することへの姿勢と、他者がもつ経験する権利への敬意です。意味を生成し続ける存在として、互いの成長と変容の可能性を支え合うこと。それが、より人間らしい社会を築く第一歩となるのではないでしょうか。

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