認知革命の終焉

2026/01/12

column

歴史家ユヴァル・ノア・ハラリ氏が「サピエンス全史」で提唱した「認知革命」は、ホモ・サピエンスを地球の支配者に押し上げた転換点として知られています。しかし、この「虚構を信じる力」という社会的な変革の背後には、より根源的な生命のオペレーティング・システム(OS)の更新があったはずです。

私はこれを、サピエンスという一種の枠組みを超えた、生命による「仮想世界創生(Virtual Worlding)」と呼びたいと考えています。

これは、バラバラの刺激に反応するだけの生物が、脳内に「存在」を仮定し、一貫性のある「仮想空間」としての世界を構築し始めた、壮大な進化のプロセスです。ハラリ氏の認知革命は、この巨大なOS上で起動した一つのアプリケーションに過ぎません。本稿では、この「仮想世界創生」の仕組みを紐解くことで、人類の栄光と、今私たちが直面している危機の正体を明らかにします。

世界認知の革命

「自己」の目覚め

まず、システム的な「自己」の目覚めが「仮想世界創生」の端緒となった可能性があります。それまでは、ただ目前の刺激に反応するだけの存在でしたが、ある時、脳内認知において「記憶」を素材に「仮想化された世界」を再構成する能力を獲得したのです。

意識の中の”自己”と”他者”

意識の中の”自己”と”他者”

前回の考察では、意識を「意味が生成する場」として捉え...

この能力の獲得により、脳内には一種のシミュレーション空間が生まれました。この空間の中で、客体としての「自己」と「他者」が分離して立ち現れ、同時に、それらを静かに見つめる観察者「主観」という二層構造の認識図式が完成しました。

ここで「主観」とは、常に観察する主体であって、決して観察される客体にはなり得ない存在を指します。私たちが「自分の意識」だと思っているものは、実は記憶内で再構成された"自己"の"自己意識"を観察しているだけであり、その観察を行っている「主観」そのものは、構造的に自己を観察することができません。この非対称性——見る者と見られるものの分離——が、認知システムに刻み込まれたのです。

こうして、単なる刺激応答装置から、内的な世界モデルを持つ存在へと変貌を遂げました。

認知基盤としての「存在」

この新しい認識構造を支える基盤としてインストールされたのが、「存在を仮定するOS」です。このOSの最大の特徴は、世界を認知する際に「存在」という「仮想的」な情報パッケージを生み出すことにあります。

存在を仮定するOS

存在を仮定するOS

私たちは日々、ものごとが「そこにある」と感じながら...

脳内に再構成された世界において、連続的で混沌とした現実を「存在」という「仮想的」な枠組みで切り出し、離散化して捉えるようになりました。大地を流れる水の軌跡を「川」という一つの存在として認識し、大空に浮かぶ白く漂うものを「雲」として固定化する——このような情報のパッケージ化により、世界を扱いやすい「存在」の集合として処理できるようになったのです。

重要なのは、この「存在」には、石や獲物といった物理的実体だけでなく、目に見えない抽象的な概念も含まれるということです。「部族」「正義」「約束」「協力」といった、物理的には存在しないものを、あたかも実在するかのように——つまり「存在する」ものとして——認知し、共有することが可能になりました。物体も虚構も、すべて等しく「存在を仮定する」ことで認知されるのです。

この離散化によって、膨大な情報から成る複雑な世界を、極めて少ないパラメータで、かつノイズに左右されない強固なモデルとして処理する能力を手に入れました。世界をシンプルな「存在の集合」として扱えるようになったことで、認知負荷は劇的に減少し、同時に認知の精度と安定性は飛躍的に向上したのです。

存在仮定による情報の圧縮

存在仮定による情報の圧縮

私たちの脳が世界を認識する際、無意識のうちに「そこに何か...


存在仮定OSのノイズ耐性

存在仮定OSのノイズ耐性

私たちが外界を知覚するとき、その背後にある仕組み...

ハラリ氏の認知革命は、数万年前に「虚構を信じる力」の獲得が現人類(ホモ・サピエンス)の世界支配を可能にしたという文脈で語られています。この「虚構を信じる力」とは、ここでいう「物理的にない事象を、あたかも実在するかのように認知し、共有すること」に他なりません。すると、ハラリ氏の認知革命は、進化の過程で起こった「仮想世界創生」の一過程である可能性があります。

また、物理的に存在しないものを「存在する」として扱える能力——しかし、この段階で大規模な協力が実現するのには不十分でしょう。虚構を「存在するもの」として認識できても、それだけでは他者と協調することはできないからです。真の協力が可能になるのは、次の段階、「志向性」の発見を待たねばなりませんでした。

志向性の発見

「存在を仮定する」認知がさらに進展すると、対象の中に「志向性」を発見しました。志向性とは「ある対象に向かう性質」であり、自らの内的経験として「何かを欲する」「何かを目指す」という方向性を持った意識のことです。

そこで、自らの中にこの志向性を見出すと同時に、外界の「存在」を「自分と同じ構造(意識と志向性)を持つもの」と「持たないもの」に峻別し始めました。前者が「動物(人間)」、後者が「物」として再定義されたのです。

「意識がある」とはどういうことか

「意識がある」とはどういうことか

私たちは普段、他者に「意識がある」と感じながら...

この区別は、社会形成において決定的な意味を持ちました。他者を「自分と同じ認知構造を持つ存在」として認識できるようになったことで、人類は脳内の再構成世界において、他者の志向性、すなわち意図を想像し、シミュレートする能力を獲得したのです。

「相手は何を欲しているのか」「どう行動するつもりなのか」——他者の内的状態を自分の脳内世界モデルで再現し、予測できるようになったこの能力こそが、真の協力を可能にしました。互いの意図を理解し、調整し、共通の目標に向かって行動する——ここに、大規模な協力に基づく「社会」が誕生したのです。

さらに、この段階に至って初めて、「虚構を信じる力」が真価を発揮します。「部族」「約束」「正義」「協力」といった抽象的な虚構を、単に「存在するもの」として認識するだけでなく、共通の志向性を持つ対象として共有することが可能になったのです。見知らぬ他者とも、同じ虚構に向かう志向性を共有することで、大規模な協力が実現しました。

「認知の窓」の深化

志向性の発見と並行して、世界を少数のパラメータ(存在)で把握できるようになったことで、「認知の窓」が開きました。

ここで「認知の窓」とは、外界を含む情報処理の入力インターフェースです。重要なのは、この入り口が極めて狭かったということです。人間の脳が同時に考慮できるパラメータ(事象)の数は限られています——具体的な数は推定に過ぎませんが、膨大な情報のごく一部しか処理できないという制約は確かです。

認知の窓という制約

認知の窓という制約

私たちは今、目に入るありとあらゆる物を...

しかし、この狭さこそが、逆説的に深い洞察を可能にしました。入り口が狭いため、余計なことを考えなくて済み、限られた存在同士の相関を深く掘り下げることができるようになったのです。人類は「意志で対象を絞った」のではなく、「そもそも入り口が狭かった」からこそ、各存在について深く思考し、複雑な因果関係を理解し、長期的な計画を立てられるようになりました。

この認知の窓の深化が、次に述べる科学と宗教の誕生を準備し、個人の志向性をより明確化し、社会の複雑化を促進していったのです。

「仮想世界創生」の展開

科学の萌芽

「存在を仮定するOS」は、外界に対して二つの異なるアプローチを生み出しました。

まず、志向性を持たない対象(物)に対しては、その振る舞いの背後に一貫したルール、すなわち「因果律」を見出しました。石は落ち、火は燃え、季節は巡る——これらの現象には、意志や志向性ではなく、一定の法則が働いていると認識したのです。これが「科学」の萌芽です。ただし、この因果律もまた、後に明らかになるように、一つの仮定に過ぎないのですが。

そして、認知の窓が狭いからこそ、限られた事象同士の因果律を深く掘り下げることができました。この因果律の理解は、人類に革命的な能力をもたらしました。それが「道具」の創発です。

人類は、因果律をもとにして様々な事象を表すパラメータを掛け合わせ、新たな機能を持つ存在を創り出したのです。最初は偶然発見された火も、「摩擦によって熱が生じ、熱が可燃物を発火させる」という因果律を理解することで、自在に操ることができるようになりました。石を削れば鋭い刃物になる、木を組めば遠くまで力を伝えられる——こうして、人類は自らの身体的限界を超える道具を次々と生み出しました。

さらにこの延長線上に、人間の身体能力では到底不可能なこと——空を飛ぶ(飛行機)、海底に潜る(潜水艦)、瞬時に情報を伝える(通信技術)——さえも実現していったのです。道具とは、因果律の深い理解によって創発された、新しい「存在」だったのです。

因果律の内面への適用

外界の因果律を理解し、それを操作する力を得た人類は、必然的にその探求の矢を自らの内面に向けることになります。「火が生じるのには原因がある。季節が巡るのには理由がある。ならば、この自分の意識や志向性はどこから来たのか? なぜ自分は存在するのか?」——因果律を遡る思考は、必然的に究極の問いに突き当たるのです。

ここで「存在を仮定するOS」は、本質的な限界に直面します。「主観」は、本来観察する主体であって、観察される客体にはなり得ません。見ているものは見られるものにはなれない——これは論理的な必然です。

意識のハードプロブレムは不可能問題

意識のハードプロブレムは不可能問題

私たちは自分の意識を疑いません。痛みを感じ...

しかし、あらゆるものを「存在」として客体化することに慣れた人類は、この「主観」すらも客体化しようと試みました。「自分が何かを見ている」というその「自分」とは何か、と問うたのです。

ところが、「主観」を客体化した瞬間、新たな問題が生じます。「では、その客体化された「主観」を観察しているのは誰なのか?」——これは哲学で「ホムンクルス問題」として知られる無限後退です。観察者を客体化すれば、さらにその上位の観察者が必要になり、それを客体化すればまたその上位が必要になる……

この問題の本質は、実は因果律そのものの限界にあります。因果律にはスタート地点が必要です。哲学は、ここでさまざまな論理を駆使しました。しかし、因果律自体がある種の仮定である以上、仮定には限界があり、それがまさにこのスタート地点の問題なのです。

このことは、数学の例を見れば明らかです。数学は限られた定義・定理から様々な法則を因果律の中で導きます。しかし、出発点である定義・定理がなければ、すべての数学的知見は無に帰します。

論理的に考えれば、この問題を解決する方法は一つしかありません。スタート地点を不可知とすることです。不可知とは、人間の認識や理解の能力では、原理的に知ることができないことを表します。本来、観察者である自己が、論理的には不可知にならざるを得ない——これが正しい帰結でした。

真の対話は「わからなさ」の共有から

真の対話は「わからなさ」の共有から

本論は、意識を「意味を生み出し、解釈する場」として...

埋め込まれたバグ

しかし、この結論では人類は納得できませんでした。自分自身が不可知であるという状態は、あまりにも不安定で、受け入れがたいものだったのです。そこでOSは、一つの巧妙な処理を行いました。それが「神」という絶対的な「存在」の創造です。

人類は、自己の上位に「神」という最上位の存在を置き、その神を不可知とすることで辻褄を合わせたのです。自分は神によって創造された存在であり、その神こそが因果律の究極のスタート地点である——こうして、不可知性を自己から神へと移譲することで、自己についてはある程度説明可能な存在として保持できるようになりました。これが宗教の始まりです。

しかし、ここに重大な「バグ」が埋め込まれました。本来、論理的に不可知であるべき「究極のスタート地点」を、「神」という特定の名前、特定の性質を持つ「存在」として固定化してしまったのです。

神の主観性と物語の誕生

ここで極めて重要な前提を再度確認しなければなりません。この神の存在も、各人の意識の中で再構成されたものだということです。脳内の再構成世界において「存在する」とされた神は、各人の経験に基づいて形成されます。経験は人それぞれ異なるため、そこから生み出される再構成された神もまた、人によって異なるのです。

さらに、神を不可知としながらも、人類は神に「創造主」「超越的な存在」という役割を与え、物語を紡ぎ始めました。天地創造、人間の起源、世界の形——神がどのように世界を作り、人間を生み出したのか。各文化は、それぞれ独自の創世神話を生み出し、詳細なストーリーを構築していったのです。

おそらく当初、神話とは純粋に信仰を具現化するためのものでした。不可知なる存在への畏敬、世界の起源への問い、生きる意味の探求——こうした純粋な宗教的動機から、人々は神の物語を語り継いだのでしょう。

聖典の読み方

聖典の読み方

私たちは宗教的伝統の中で、しばしば「聖典」と呼ばれる...

しかし、やがてこの神話は、別の機能を帯びることになります。

神話の政治利用

社会が複雑化する中で、決定的な社会的分化が生じました。それが身分制度の確立です。

志向性は、個々の経験の積み重ねから形成されます。その形成メカニズムは、生命が宿る身体の構造に強く依存します。したがって、身体能力だけでなく認知能力においても、遺伝的差異に起因する個体差が生じます。たとえば、狩猟に優れた者や、戦闘において高い能力を発揮する者が現れます。こうした能力差は、行為の成果として得られる報酬の差となって現れ、より多くを獲得した者は、より豊かな経験を重ねることができます。その結果、さらなる優位性が蓄積され、長期的にはこの格差の累積が社会的な差異として固定化され、やがて身分の差として表面化していったのです。

身分の差は、支配者と被支配者の区別を生み出します。そしてここで、本来は信仰を具現化するための純粋な営みであったはずの神話が、権力によって変質させられていきます。

支配者たちは、神話を自分たちに都合の良い物語に作り変えたのです。「支配者は神に選ばれた者である」「身分の秩序は神が定めたものである」「支配者に従うことは神の意志である」——こうした物語を、支配者は被支配者の記憶に刷り込ませました。教育、儀式、反復を通じて、改変された神話は人々の脳内世界モデルの一部として固定化されていったのです。

この結果、支配者は支配者としての経験だけを、被支配者は被支配者としての経験だけを重ねることになりました。支配者は「支配者になるために」生まれ、帝王学を学びます。被支配者は、己の「起源」から「すべき役割」が神話によって決定され、それ以外の選択肢を持ちません。幼い頃から神話に基づく教育を受け、社会制度もまた神話に基づいて構築されている——こうして、身分はより強固に固定化されていきました。そして、この神話は個人および集団のアイデンティティの核心となっていきました。「私はこの神を信じる者である」という自己規定が、自分が何者であるか、どの身分に属するかを決定する最も重要な要素となったのです。

現在残っている多くの古代神話は、おそらくこうした権力による改変を経たものでしょう。

OSの限界の顕在化

不可知同士の衝突

神話が支配者の都合によって作られたものだとすれば、支配者が異なれば異なる神話が生まれるのは必然でした。ある集団では「我々の神が世界を創造した」とされ、別の集団では「我々の神こそが唯一の真理である」とされる——それぞれが自らの支配構造を正当化するために、異なる「神」を絶対化したのです。

異なる神の並立は、本質的な問題を生じます。自己のアイデンティティそのものであり、社会秩序の基盤である神の物語を否定されることは、自己の存在そのもの、そして社会構造そのものを否定されることを意味しました。

異なる神話がぶつかり合ったとき、そこに相互理解の余地はありません。なぜなら、これは異なる不可知同士の戦いだからです。不可知とは、それ以上の原因がない究極のスタート地点です。異なるスタート地点から構築された認知は、部分的な共有はあっても、極限まで突き詰めれば必ず矛盾が表面化します。

この違いを修正するには、一方または両方の認知の完全な書き換えが必要です。しかし、それは自己のアイデンティティそのものを破壊することを意味するため、極めて困難であることは自明です。こうして、「絶対的な正義」同士の衝突、すなわち宗教戦争が、人類史に深い傷跡を刻むこととなったのです。

絶対性に挑む科学

時代が進み、科学が高度化すると、皮肉にも科学そのものが「神」という究極の存在の絶対性に疑問を投げかけ始めました。天文学は天動説を覆し、神が創造したとされる天の構造を書き換えました。進化論は、神が人間を特別に創造したという物語に疑問を投げかけました。脳科学は、意識のメカニズムに迫り、神の介在なしに意識を説明しようと試みました。

「神」という説明モデルは、次々と科学的説明に置き換えられていったのです。かつて神の領域とされた現象が、因果律によって説明可能になっていく——これは、人々の信仰の基盤であり、アイデンティティの核心を揺るがす事態でした。

これにより、共通のOS上で動いていた社会に深刻な分断が生じます。科学的世界観と宗教的世界観の対立——これは単なる意見の相違ではなく、同じOSの中で互いに矛盾する「存在」を主張し合う、システム内部で起きた衝突でした。

科学に揺さぶられる「存在」

しかし、科学が神の絶対性に疑問を投げかけただけでなく、さらに深刻な事態が進行していました。科学は、「存在を仮定するOS」そのものの根幹を揺るがし始めたのです。

その最初の衝撃が、アインシュタインの特殊相対性理論で提唱された方程式E=mc²でした。この式が明らかにしたのは、質量mとエネルギーEの等価性です。

それまで、質量は物体そのものを表すとされてきました。古代ギリシャの哲学者デモクリトスにより提唱され、19世紀初頭にドルトンが体系化した原子論では、原子の組み換えは起きても、原子そのものは生成も消滅もしないとされていました。原子という「存在」は不変であり、化学反応とはその組み換えに過ぎない——これは「存在を仮定するOS」と完全に整合する世界観でした。

ところが、E=mc²は、存在の実体である質量が、エネルギー、すなわち「作用」に変換できることを明らかにしたのです。「存在するもの」が「作用」に変わる——これは、「存在」という離散的で確固たるオブジェクトを基盤とするOSにとって、最初の深刻な矛盾でした。

相互作用を「物」と見る脳

相互作用を「物」と見る脳

私たちが日常的に「存在」と呼んでいるものは、実際には世界に実体として...

究極の挑戦

それでも、この時点ではまだ、科学者たちは「存在」の概念での説明を試みていました。光と粒子の二重性という現象も、何とか「粒子」という存在の枠組みの中で理解しようとする努力が続けられていたのです。

しかし、量子力学の出現がこの試みを完全に打ち砕きました。量子力学がミクロの世界を徹底的に探究した結果、そこには、私たちの「存在を仮定するOS」が前提としてきたような、確固とした実体(離散的で自立した存在)が必ずしも成立しないことが明らかになりました。

粒子は観測されるまで特定の位置に「存在」するわけではなく、波動関数として確率的に広がった状態で記述されます。さらに、観測という行為そのものが対象の状態を決定してしまう——量子の世界は、「そこに何かが確固として存在している」という存在論的前提と根本的に衝突したのです。

この問題を決定的に示したのが、量子もつれの現象でした。一度相互作用した粒子は、どれほど空間的に隔たっていても、相関を保ち続けます。一方の粒子の状態を測定すると、他方の粒子の状態が即座に定まる。この振る舞いは、粒子を互いに独立した「存在」として捉えようとすると、深刻な矛盾を引き起こします。空間的に分離した二つの「存在」が、局所的な因果関係を超えて結びつくという事実は、従来の「存在」の論理では十分に説明できないのです。

「存在」という認知の歪み

「存在」という認知の歪み

量子もつれにおいて、離れた場所にある二つの粒子...

これは単なる科学理論の更新ではありません。人類の認知システムそのものの基盤が、物理的現実と整合しないという、存在論的な危機なのです。世界を説明する論理が、根底から揺らぎ始めました。

認知の危機

一般人の我々にとって量子力学など関係ない、普通に生活しているだけならば「そこに○○が存在する」と考えていても何も困らない——そう思う人もいるかもしれません。しかし、「存在を仮定する」OSの破綻は、われわれの身近にも目に見えてくるようになりました。それが、AI、人工知能の出現です。

人類は自らの認知構造を模した人工知能を発明しました。AIは「存在を仮定する」OSの論理、すなわち存在の離散化と因果律に基づいて世界をモデル化します。しかし、ここで新たな、そして極めて深刻な問題が生じています。

AIは、「存在を仮定する」OSの認識ロジックを再現できます。人間がどのような特徴を見て「人間が存在する」と判定するのか、どのような文章の構造を見て「人間が書いた」と認識するのか——OSが「存在」を判定するためのパターンを学習し、それを生成することができるのです。

この能力が、前代未聞の脅威を生み出しています。ディープフェイク技術は、人間の顔の特徴、表情の動き、声の質感を完璧に再現し、「そこに人間が存在する」という確信を巧みにハッキングします。実在しない人物の映像が、OSのあらゆる判定基準を満たしながら生成されるのです。生成AIは、人間の文章の論理構造、言葉の選び方、文脈の流れを学習し、「この文章は人間が書いた」という前提を揺るがします。

さらに深刻なのは、AIが生成したコンテンツは、人間が作ったものと区別がつかないだけでなく、より「それらしく」見えることすらあるという点です。「存在を仮定する」OSが「存在する」と判定する全ての特徴を最適化して備えているからです。人間が微妙な揺らぎや不完全さを含むのに対し、AIは完璧に「理想的な存在の特徴」を再現できます。

こうして、「存在を仮定する」OSが「存在する」と判定する全ての特徴を備えながら、実際には存在しない——この根本的な矛盾に、人類は立ち往生しているのです。「そこに何かが存在する」という確信が、もはや何の保証にもならない時代。真実と虚構の境界が溶解し、「存在を仮定する」という認知の基盤そのものが信頼性を失いつつあります。

「仮想世界創生」の時系列

先に考察したように、本稿で提唱する「仮想世界創生」は、ハラリ氏が定義した数万年前の認知革命よりも、遥か以前にまで遡る必要があると考えられます 。特筆すべきは、チンパンジーやオランウータンといった類人猿もまた、道具を創出する認知能力を潜在的に備えているという点です 。この事実は、「存在を仮定するOS」がホモ・サピエンス独自の特権ではなく、進化の過程で程度の差こそあれ、多くの生物にインストールされてきた可能性を示唆しています 。したがって、生物進化のどの段階でこの「仮想世界」が萌芽したのかを再定義せねばなりません。どのような認知機能が順番に生まれたかという「仮想世界創生」の時系列を含む詳細な分析については、別稿にて改めて議論を展開する予定です 。

限界点に立つ人類

OSの破綻

人類は今、「仮想世界創生」によって手に入れた「存在を仮定する」OSの限界点に立たされています。

このOSは、人類に虚構を信じる力を与え、大規模な協力を可能にし、科学と宗教を生み出しました。しかし同時に、宗教戦争という悲劇を生み、量子力学によってその論理的整合性を問われ、AI時代には真実の判定能力そのものを失いつつあります。

「仮想世界創生」以来、人類は「存在を仮定する」という一つの認知戦略によって、地球の支配者となりました。しかし今、そのOS自体が限界を迎えています。この限界を認識することがまず必要です。

一筋の光

では、次の進化のステップは何か——ここで、一筋の光が見えてきます。

それは、「存在仮定」を介在しない認知です。

「離散化」をバイパスする音楽

「離散化」をバイパスする音楽

私たちは通常、世界を「存在」の集合として認識して...

音楽や芸術の体験が示唆するのは、「存在仮定」以前の、あるいはそれとは異なる認知の可能性です。人類は、「仮想世界創生」以前に持っていた連続的な世界との直接的な共鳴能力を、完全には失っていないのかもしれません。

「世界」の再定義へ

私たちが今、デジタル技術によって直面しているのは、皮肉にも自らがかつて脳内に創り出した「仮想世界」の外部化です。

かつて生命は、生き残るために混沌とした現実を「存在」というパッケージに閉じ込め、脳内という安全な仮想空間に世界を再構成しました。しかし現在、シリコンチップ上の仮想空間という外部の「仮想世界」が、個人の脳内モデルを凌駕する精度で現実を記述し始めています。これは、数千万年続いてきた「個の脳が世界を記述する」というOSの有効期限が切れたことを意味するのかもしれません。

「認知革命の終焉」とは、人類の知能の終わりではなく、「仮想世界」の主権が、生物の脳から外部の計算資源へと拡張される歴史的転換点なのです。私たちは今、自らが発明した「仮想」という力によって、自らの「世界」そのものを再定義せざるを得ない時代に立っています。


image

ご意見、ご感想などはこちらへ

連絡先・お問い合わせ

連絡先・お問い合わせ

.

QooQ