量子もつれにおいて、離れた場所にある二つの粒子の状態が相関を持つ現象は、古典的な物理観では理解困難な矛盾を生み出します。世界の本質を個別の「粒子」ではなく、空間全体に広がる波動(量子状態)として捉えれば、この困難は軽減されます。二つの粒子は独立した存在ではなく、もともと一つの共通の波動関数の一部であり、測定によってその相関が顕在化するに過ぎないからです。
物理学が「粒子」という概念を保持しているのは、エネルギーが「ひと塊(量子)」としてやり取りされるという実験的事実——光電効果やコンプトン散乱など——があるためです。しかし、これらは「エネルギーが量子化されている」ことを示すだけであり、必ずしも「小さく固い粒」が実体として存在することを意味しません(「相互作用をモノと見る脳」参照)。
現代物理学は、量子力学や場の量子論を通じて、古典的な「粒子」や「波動」という二分法を超えた抽象的な記述を発展させてきました。にもかかわらず、量子もつれのような現象が依然として直観に反するように感じられるのはなぜでしょうか。
「存在」という認知の枠組み
一つの可能性として、私たちの認知システム自体が持つ根本的な構造が関係しているかもしれません。人間は世界を「実体としての物の集まり」として捉えますが、これは進化の過程で獲得した生存戦略の結果です。
複雑な相互作用の連続体である「場」をそのまま処理すると、脳は膨大な情報量に圧倒され、迅速な判断ができません。そこで脳は現実を「物体」「境界」「空間」といった単純なモデルに置き換えて認識します。触覚で感じる「硬さ」は、実際には電子同士の電磁相互作用(斥力)に過ぎませんが、認知システムがこの安定的な相互作用パターンを「実体」として翻訳することで、私たちは「そこに物がある」という確かな実体感を得るのです。
この認知メカニズムを、ここでは「存在仮定OS」と呼びます。「存在仮定OS」とは、世界を
- 離散的対象
- 空間的位置
- 恒常的同一性
として把握するための認知的圧縮アルゴリズムです。
この枠組みは日常生活において極めて有用ですが、物理学の概念形成にも無意識のうちに影響を与えている可能性があります。
物理理論における「存在」の痕跡
現代物理学は、日常的直観から大きく離れた概念——虚数時間、負のエネルギー、非可換幾何など——を数学的形式主義によって扱うことに成功してきました。この意味で、物理学はすでに人間の認知的制約を大きく超えています。
しかし、理論構築の根底には、依然として「何かが『ある』」という存在論を不可避的に言語化してしまっているように思えます。
超弦理論における「弦」
超弦理論は、すべての基本粒子を「振動する一次元の弦」として統一的に記述する理論です。電子、クォーク、光子といった異なる粒子は、すべて同じ弦が異なるモードで振動している状態として説明されます。この理論は「粒子性」から一歩踏み出し、より動的なプロセスに注目した点で画期的です。
しかし、超弦理論においても、弦は10次元や11次元の時空に「存在する」数学的対象として扱われます。弦には張力があり、長さがあり、時空の中を運動します。M理論では弦そのものがより根本的なブレーンの一側面として理解されますが、やはりブレーンは時空に「埋め込まれた」対象として概念化されます。
もちろん、ここでの「弦」や「ブレーン」は日常的な意味での「物」ではなく、高度に抽象的な数学的構造です。しかし、それでもなお「時空のある場所に何かが位置する」という空間的存在の枠組みは維持されています。
場の量子論における「場」
場の量子論は、粒子を「場の励起状態」として記述します。電子は電子場の励起、光子は電磁場の励起です。現代的な理解では、場は「時空の各点に付随する演算子」として定義され、これは確かに「関係性の構造」に近い記述です。
場の量子論は、粒子という実体概念から大きく離れ、演算子代数という抽象的な数学的構造によって自然を記述することに成功しました。真空でさえ、あらゆる場が最低エネルギー状態で「存在している」状態として扱われ、真空のエネルギーやカシミール効果など、観測可能な物理的効果を持ちます。
それでも、「場という数学的対象が時空全体に広がっている」という表現には、何らかの「存在」の概念が暗黙のうちに含まれているように思われます。これは物理学の実際的な運用においては問題になりませんが、根本的な理解のレベルでは、さらなる概念的飛躍の余地があるかもしれません。
科学的指標と認知
質量、位置、運動量、エネルギーといった科学的指標も、「存在仮定」の影響を受けている可能性があります。
たとえば「質量」は、物体が「持っている」固有の性質として理解されがちです。しかし、ヒッグス機構が示すように、質量は粒子がヒッグス場と相互作用することで「獲得する」性質です。つまり、質量でさえ本質的には関係性の中で生じる現象であり、孤立した実体の固有属性ではありません。
「位置」という概念も、量子力学では根本的に再考を迫られます。不確定性原理が示すように、粒子の位置と運動量を同時に正確に決定することはできません。これは測定技術の限界ではなく、「粒子がある特定の場所に存在する」という古典的な概念そのものが量子レベルでは成立しないことを意味します。
現代物理学はこれらの困難を数学的に克服してきましたが、私たちの直観的理解は依然として「何かがどこかに存在する」という枠組みに縛られています。
関係性理論への展望
近年、関係性量子力学(Relational Quantum Mechanics)のような試みが提案されています。これは、物理的性質を絶対的なものとしてではなく、系と観測者との関係において定義しようとするアプローチです。
この方向性は示唆に富んでいますが、さらに根本的な問いが残ります。私たちが物理現象を記述するために用いる数学的構造そのものに、「存在」という認知的前提が組み込まれていないでしょうか。つまり、関係性量子力学が前提とする『系と観測者』という二項構造すらも、なお存在論的残滓として疑われます。
おそらく、現在の数学は「存在」を「変数」として扱うことを暗黙の前提にしている可能性があります。もし仮に、「何かが『ある』」という前提を完全に排除した記述方法が可能だとすれば、それはどのような形式を取るのでしょうか。
また、「存在仮定OS」が進化の過程で獲得された生存戦略であるならば 、それを「完全に排除した記述」が果たして人間に可能なのかという問題もあります 。人間が認識主体である以上、主客の分離を伴わない記述は「言語」や「数学」という構造そのものを否定することになりかねません。
想像は果てしなく広がるものの、答えは見つかりません。しかし、問い続けることには意義があります。
問いとしての「存在」
「存在」という概念は、私たちの認知システムが世界を把握するために生み出した便宜的な枠組みである可能性があります。量子もつれの不思議さは、私たちが無意識のうちに「分かれて存在する」という認知の枠組みに縛られているために生じる困難であるかもしれません。
現代物理学は、数学的形式主義によってこの認知的制約を大きく超えてきました。超弦理論や場の量子論は、日常的な「存在」概念から遠く離れた抽象的な記述を実現しています。しかし、それでもなお、理論の根底には「時空に何かが位置する」「場が広がっている」といった、何らかの存在論的前提が残っているように見えます。
物理学が真の統一理論に到達するためには、この最後の認知的束縛からも自由になる必要があるのかもしれません。それは、宇宙を「何かが存在する場」としてではなく、純粋な「相互作用のパターン」や「関係性の構造」として捉え直すことを意味します。
もちろん、具体的な物理理論への道筋は不明瞭です。専門家ではない一人の宗教家が提案できる範疇を大きく逸脱する内容です。しかし、量子力学が古典物理学の概念的枠組みを打ち破ったように、次の概念的革命は「存在」そのものの再定義を必要とするかもしれません。現代物理学が築いてきた偉大な成果を土台として、さらなる概念的飛躍への可能性を探ることは、意義のある試みではないでしょうか。
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