私たちは、自らの意志で世界を見渡し、目的を持って歩んでいると信じて疑いません。しかし、大腸菌の化学走性をモデルとしたシミュレーションを解説した記事『「志向性」を生み出すには』が突きつけた事実は、私たちの自画像に劇的な再考を迫るものでした。

「志向性」を生み出すには
前回までの記事で、以下の2点を確認しました。「意識が...
それは、「志向性(~を目指す性質)」という極めて人間的で高次に見える現象が、実は「過去の記憶の関数」として、数理的な必然の中から創発しうるという驚くべき知見です。このシミュレーションでは、エージェントが「過去の報酬変化」をどの程度の幅で記憶し、学習率として反映させるかが成功の鍵を握っていました。記憶の幅が短すぎれば盲目的な迷走に陥り、長すぎれば変化に適応できなくなります。「中程度の記憶の窓」において、エージェントはあたかも意志を持って餌を探求しているかのような「志向的行動」を見せました。しかし、ここで決定的に重要なのは、エージェントの内部にあるのは冷徹な「演算」だけであり、そこにはまだ「見えている」という実感も「選びたい」という願いも存在しないということです。
そこで本稿では、この志向性の核心である「何かについての」とは一体どういうことなのかを掘り下げてみたいと思います。すると、そこではクオリア——第一人称的な主観的体験——が果たす機能が明らかになってきます。さらに、なぜ私たちは「意識を持っている」と感じるのか、その構造的必然性が浮かび上がってくるのです。
次元の呪い
ここで、志向性の数理的構造について、さらに深く掘り下げる必要があります。シミュレーションに準じて志向性を発現させるためには、「何を志向するか」という志向の目的を定量的に表すパラメータが不可欠です。複雑な志向性であれば、当然、複数のパラメータで記述される必要があります。

志向性は記憶の関数か
私たちは、自らの意志で何かを選び、目標に向かって...
しかし、ここに致命的な問題が潜んでいます。パラメータの数が多すぎると、いわゆる「次元の爆発(curse of dimensionality)」が起きてしまい、事実上探索不可能になるのです。例えば、環境中の全ての刺激(光の波長分布、化学物質の濃度、音の周波数成分など)をそのまま独立したパラメータとして扱おうとすれば、その組み合わせは天文学的に膨れ上がり、限られた計算資源では処理できなくなります。
そこで決定的に重要になるのが、「存在仮定」という次元圧縮の戦略なのです。存在を仮定することにより、現象を記述するための次元が著しく減少します。膨大な感覚データの束を「一つのリンゴ」という概念的な塊にまとめることで、何千という個別パラメータが、数個の高次パラメータ(位置、色、大きさなど)へと圧縮されるのです。
意味が込められた体験
この次元圧縮の現象には、クオリア(主観的体験)が深く関わっていることは想像に難くありません。視覚の場合、「存在」によって次元圧縮が起こることは以前の議論の通りですが、さらにその圧縮を加速させるのがクオリアの役割です。

存在仮定による情報の圧縮
私たちの脳が世界を認識する際、無意識のうちに「そこに...
クオリアは何のために存在するのでしょうか。それは体験を記憶に保存するための圧縮フォーマットとして、そして演算結果を意識に報告するためのインターフェースとしてです。後述する「盲視」の現象が示すように、クオリアはリアルタイムの情報処理や行動の実行には必須ではありません。
対象を認識する際、脳は「これは赤いもの」「~のような匂いのあるもの」「~の音を出すもの」といった形で、クオリアを付随させます。光の波長スペクトルを数値の配列として記録するよりも、「赤」というクオリアとして記憶したほうが、情報量は遥かに少なくて済みます。化学物質名の羅列よりも「バラのような香り」というクオリア、音の周波数分布よりも「ピアノのド」というクオリアのほうが、記憶容量の面で圧倒的に効率的なのです。
しかし、クオリアの本質は単なるデータの圧縮にとどまりません。クオリアは「評価を含んだ圧縮」なのです。
最も分かりやすい例が「痛み」です。体が傷つくという事態を、生データのまま記録しようとすれば、「足のかかと部分の中央付近が○cm損傷、神経が○本、毛細血管が○本切断、出血が○mL…」といった膨大な情報を保存しなければなりません。しかし、「かかとがかなり痛かった」というクオリアならば、この膨大な情報が一つの主観的体験に凝縮されます。
ここで決定的に重要なのは、「痛い」という体験には、既に「これは避けるべきことだ」という評価・意味が込められているという点です。体が傷つくということは自己保存の重大な危機であり、避けなければならない事態です。この生存に関わる意味を、つらい感覚・避けるべき感覚として「痛み」というクオリアで体験させることで、その体験自身に必要十分な情報が最小の形で載っているのです。
これは、コンピュータのラベル付けとは決定的に異なります。コンピュータが
というラベルを保存しても、それを使うたびに「これは危険か?どう対処すべきか?」と評価プログラムを走らせる必要があります。しかし、「ズキズキ痛い」というクオリアは、体験した瞬間に「これは避けるべきだ」という意味が体験自体に含まれているため、想起する際に再評価の計算コストがかかりません。クオリアは、生存に必要な情報を最小のデータ量で保持し、かつ意味が自明な記憶フォーマットとして、迅速に行動指針を引き出すための、進化が磨き上げた圧縮アルゴリズムなのです。
色についても同様です。「700nmの光波長」というラベルは、毎回「これは何を意味するか」を解釈する必要があります。しかし「赤」というクオリアには、「リンゴ」「血」「警告」といった連想が体験に付随しており、即座に文脈に応じた判断材料となります。
究極の省エネ戦略
では、なぜ私たちはその演算の結果を、鮮やかな色彩を伴う「クオリア(主観的質感)」として体験し、自らの「意志」によるものだと錯覚するのでしょうか。その謎を解く鍵が、脳というハードウェアの上で駆動する「存在仮定OS」という概念です。

存在を仮定するOS
私たちは日々、ものごとが「そこにある」と感じながら生きています...
私たちの脳に流れ込む感覚データは、そのままでは処理不能な情報の奔流です。脳はこの膨大な生データをそのまま処理するのではなく、そこに「物体」や「他者」といった記号——フォルダやアイコンのような仮想的実体——が存在すると仮定することで、情報量を劇的に圧縮します。情報学的な試算によれば、この「存在仮定」による圧縮率は6億9000万倍にも達することもあり、さらにノイズだらけの環境下でも安定して対象を認識し続ける「ノイズ耐性」をもたらします。つまり、私たちが感じる「存在」とは、脳が生き残るために編み出した究極の省エネ・高効率戦略である「ユーザーインターフェース(UI)」なのです。
この「存在仮定OS」の働きを如実に示すのが「盲視」という現象です。視覚野を損傷した患者は、主観的には「何も見えない」と報告しながらも、差し出された棒の向きを正確に当てることができます。これは、脳の深部で「演算(カーネル)」は終わっているものの、OSがそれを「クオリア(報告)」としてモニターに映し出していない状態を意味します。盲視は、クオリアが演算そのものには不要であり、演算結果を意識に報告するためのインターフェースとして機能していることを明確に示しているのです。
私たちが普段、「赤いリンゴがあるから手を伸ばそう」と判断していると感じるとき、実は脳内の演算は既に完了しており、その結果が事後的に「存在」や「欲求」というクオリアの形で、意識という掲示板に貼り出されているに過ぎないのです。
「何かについて」の志向性
ここで、志向性における最大の謎に立ち返りましょう。なぜ私たちは「何かについて」考えたり、特定の対象に注意を向けたりするのでしょうか。
リソース制約が生み出す必然
従来の問い方は「なぜ特定の対象Aを選んで、Bを選ばないのか」というものでした。しかし、この問いは既に「選択する主体」の存在を前提としており、循環論に陥ります。ここで発想を転換する必要があります。
「なぜ特定の対象に注目するのか」ではなく、「限られたリソースしかないから、その瞬間で認知できる対象は限られている」と考えたらどうでしょうか。
志向性の目的は、先の議論から数理的にはパラメータで表すことができます。しかし、もし得られる感覚全てについて処理しようとすると、膨大なデータを処理しなければなりません。問題は、私たちの脳には限られたリソースしかないということです。
例えば、目に入ったものすべてについて「存在」と認識しようとしても、想像以上の「存在」が実際には目に入っているはずです。しかし、自分の認知を振り返った場合、目に入ったものすべてを「存在」として認知しているような感じはしません。これは「特定のものを注視している」のではなく、「処理できる量が物理的に限られている」からなのです。
志向性の二段階メカニズム
志向性は、次の二段階で創発します:
- 第一段階:リソース制約による粗い絞り込み
- 限られた計算資源というボトルネックにより、処理される対象は物理的に限定されます。この段階では、積極的な「選択」は起きていません。単に容量の制約があるだけです。
- 第二段階:記憶との照合によるリソース再配分
- 粗く絞られた候補の中で、過去の記憶(報酬履歴)との照合が起こります。すると、過去に重要だった刺激パターンの処理を優先する神経回路が活性化し、そこへさらにリソースが集中していきます。これは「注意のバイアス」が記憶によって学習された結果です。
この二段階のプロセスの結果として、特定の対象への処理集中が起こります。これが、外から観察すれば「~について志向している」と見える行動を生み出すのです。
つまり、志向性の「何かについて」という性質の正体は、積極的な選択ではなく、計算資源の物理的制約というボトルネックと、記憶に基づくリソース配分バイアスが作り出す残余に過ぎません。私たちが「意識的に選んでいる」と感じる対象は、実はリソース制約と過去の学習というフィルターを通過した結果なのです。
志向性から主観的体験へ
意識の三層構造
ここで、私たちの意識の構造は決定的な三層性を帯びることになります。
- 第一層:演算レイヤー
- リソース制約と記憶照合によって、特定対象への処理集中が起こります。これは純粋に客観的なプロセスであり、ここには主観的体験はまだ存在しません。盲視の患者が示すように、この演算だけで行動は成立します。
- 第二層:報告レイヤー(再構成された世界)
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かつて仏教哲学の「唯識」が看破したように、意識の中には「記憶によって再構成された世界」が広がっています。演算の結果は、この箱庭のような世界の中に「志向性を持つ自己」としてクオリアを通じて提示されます。「私は~について考えている」というキャラクターが、モニター上にレンダリング(描画)されるのです。
このクオリアによる提示は、演算結果を意識に報告するためのインターフェースとして機能します。そして同時に、この体験を記憶に保存する際には、クオリアが圧縮フォーマットとして用いられます。ただし、記憶に取り込まれる際には、クオリアそのままではなく、後の演算に都合の良い形で抽象化され、再利用可能な形式へと変換されます。 - 第三層:観察レイヤー(真の自己意識)
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そして、この再構成された世界を静かに見つめる「真の自己意識(観察者)」が存在します。しかし、観察者は常に「見る主体」であり、自らを画面の中に映し出すことは原理的に不可能です。
ここに意識の構造上の必然が生じます。真の自己意識は、再構成された自己意識だけが唯一認識できる「自己」なのです。それ以外に「自己」を知る方法がありません。したがって、モニターの中に映し出された「志向性を持つ自己」のクオリアを、自分自身のものとして認識することは、錯覚というより構造上避けられない帰結なのです。

意識の中の”自己”と”他者”
前回の考察では、意識を「意味が生成する場」として捉え...
この「真の自己意識(観察者)」自体が何であるかは、原理的に自己言及できない不可知な存在として受け入れるほかありません。観察者を観察しようとすれば、さらに上位の観察者が必要になり、無限後退に陥るからです。私たちにできるのは、「何かが観察している」という現象学的事実を認めることだけです。

真の対話は「わからなさ」の共有から
本論は、意識を「意味を生み出し、解釈する場」として再定義する...
私たちが「自分の意識を知っている」と思うとき、私たちは鏡に映った自分を見ているのではなく、脳というOSが作り出した「自己という名のアイコン」の振る舞いを観察しているだけなのです。そして、それ以外の「自己」を知る術はないのです。
ここで重要なのは、志向性とは外から見た性質であるという点です。志向性は、内面に宿る神秘的な性質であるかのように感じられますが、意識の入れ子構造を考慮すれば、それは観察者から見た関係的性質として理解すべきです。あるキャラクターが「志向性を持つように見える」ならば、観察者にとってそのキャラクターは志向性を持っています。演算結果として「~について考えている自己」が描画されれば、それは志向性を持つ自己なのです。
主観的体験の必然性
これにより、「なぜ私は『~について考えている』という主観的体験をするのか」という問いに答えることができます:
- リソース制約と記憶照合により、特定対象への処理集中が起こる(第一層)
- その演算結果が「~について考えている自己」として再構成・描画される(第二層)
- 真の自己意識は、この再構成された自己しか「自己」として認識できない(第三層)
- したがって、必然的に「私が~について考えている」と体験される
志向性の主観的体験は、意識の入れ子構造における構造上の必然なのです。
なぜ「この質感」なのか
しかし、ここまでの議論を尽くしても、なお一つの根源的な問いが残ります。なぜアラートは「痛み」のようなこの特定の主観的質感という形式をとるのでしょうか。
アラートを出す方法は、理論上、無数に考えられます。内部的なフラグを立てるだけでも、警告音を鳴らすだけでも、機能的には十分なはずです。「痛み」というクオリアは、確かに必要な情報を損なわずに圧縮し、意味を込めて保存するという十分条件は満たしています。しかし、では「痛み」である必然性はあるのでしょうか。
なぜ「避けるべき状態」を表現するのに、他の無数の可能な形式ではなく、まさにこの「ズキズキする嫌な感じ」でなければならないのか。なぜ「赤」は「青」や「緑」ではなく、まさにあの「赤さの感じ」なのか。
ここに、意識研究における最大の難問が横たわっています。機能的説明は「何のために」を答えますが、「なぜこの質感なのか」には答えられません。そして、この問いには原理的に答えがないのかもしれません。なぜなら、他のあり方を経験することができない以上、比較のしようがないからです。
私たちは、「痛み」というクオリアが情報圧縮と意味付与という機能を果たしていることは理解できます。しかし、その機能を果たすために、なぜこの特定の主観的質感が選ばれたのか——それは、問うこと自体が論理的に不可能な問いなのです。
クオリア・記憶・意識
ここまでの議論で、志向性の創発メカニズムと主観的体験の必然性について説明してきました。しかし、意識の本質に関わるさらに深い問題が残されています。
意識には記憶が必要である
まず認識すべきは、意識と記憶は不可分であるという事実です。もし本当に全ての記憶が完全になくなったら、意識もまた消失するでしょう。生まれる前の胎児には、まだ十分な記憶の蓄積がなされていないため、意識はないと考えられます。体を動かし、感覚器官からのフィードバックを受け、原因→結果の因果連鎖が積み重なって記憶となり、そこから再構成された自己が形成されてはじめて、意識が誕生するのです。
記憶喪失症の患者であっても、完全に記憶が消失しているわけではありません。一部の記憶が欠損しているだけならば、その部分が欠けた意識が現れるだけです。意識が消失するのは、文字通り全ての記憶——身体感覚や自己と他者の区別を含む最も基本的な記憶まで——が失われた時です。
自己と他者の区別
では、どのような記憶でも意識を生み出せるのでしょうか。答えは否です。意識が成立するためには、記憶に質的な要件があります。最も根本的なのは、自己と他者の区別です。
意識の源流は自己意識にあります。「これは自分だ」「あれは自分ではない」という区別が確立されてはじめて、「私が~を経験している」という構造が成立します。自己と他者の境界が曖昧なままでは、統合された意識体験は生まれません。

身体と意識の関係性
私たちの意識は、物理的な脳がなければ生まれません...
クオリア由来の記憶
ここで、挑戦的な仮説を提示したいと思います。私たちが意識を持つと感じるためには、その源となる記憶にクオリア由来のものが含まれていることが必要なのではないでしょうか。
コンピュータもデータを記憶します。人工知能は膨大な情報を蓄積し、人間と同じような応答を生成できます。そのうち、AIを搭載したロボットが登場し、私たちと同じように動き、同じように話すようになるでしょう。しかし、そこに意識を感じるでしょうか。おそらく感じないでしょう。
それは、AIの記憶が
という記号の集積に過ぎないからです。一方、人間の記憶には「あの赤さの感じ」というクオリア由来の痕跡が含まれています。記号的記憶と質感的記憶——この違いが、意識の有無を分ける決定的な境界線なのかもしれません。
同じように動き、同じように話すAIロボットは、まさに「哲学的ゾンビ」そのものです。機能的には人間と区別できないのに、内側には何もない。しかし、私たち人間は(自分以外の)人間を哲学的ゾンビだとは感じません。なぜでしょうか。
他者の意識を感じる
それは、他者が不可知な自己意識から不可知なクオリアを使って判断している存在だと、私自身の真の自己意識が感じるからです。
私は自分自身の内側で、「不可知な観察者」が「クオリアという質感」を通じて世界を経験しているという構造を生きています。そして、他者を見たとき、同じ構造——不可知な内面から、クオリア由来の記憶に基づいて判断し行動する存在——を推定します。この類推によって、私は他者に意識を感じるのです。
しかし、ここに決定的な問題があります。他者のクオリアは原理的に検証不可能なのです。他者が本当にクオリアを持っているのか、それとも巧妙に振る舞う哲学的ゾンビなのか、確かめる術はありません。
だから、私は人間に意識があると信じているのです。しかし、他の人にとってはどうか分かりません。あなたが私に意識を感じるかどうかは、あなたの判断です。そして、それは検証できません。

意識と信仰
自己の意識は、自己の経験を通じてのみ生まれるため...
他者性の限界
この視点は、さらに深い問いを引き起こします。クオリア由来の記憶があれば意識があるという基準を採用すれば、痛みを避ける行動を示す昆虫にも意識があるかもしれません。いや、化学勾配に反応する大腸菌にさえ、何らかの原始的な意識があるかもしれません。

大腸菌は考えるのか?
私たちは日常的に「赤い花を見る」「甘い味を感じる」...
しかし、ここで私たちは壁に突き当たります。私は人間であり、大腸菌の主観的体験を想像することは不可能です。トーマス・ネーゲルが「コウモリであるとはどのようなことか」という問いで示したように、私たちは自分とは根本的に異なる存在の内側を知ることができません。
コウモリは超音波で世界を「見て」います。しかし、その「見え」がどのような質感なのか、人間の視覚体験と比較できるのか、私たちには永遠に分かりません。大腸菌が化学物質の濃度勾配を「感じて」いるとしても、その「感じ」が何なのか、アクセスする方法がないのです。
インポッシブル・プロブレムの本質
これら全てが、なぜ意識のハードプロブレムが「インポッシブル・プロブレム」なのかを示しています:
- 質感の必然性を問えない:なぜ「この」質感なのかは、他の質感を経験できない以上、比較不可能
- 他者のクオリアを検証できない:主観的体験は定義上、第三者から観測不可能
- 異種の意識にアクセスできない:根本的に異なる感覚様式を持つ存在の内側は永遠に不可知

意識のハードプロブレムは不可能問題
私たちは自分の意識を疑いません。痛みを感じ、思考し...
私たちは、クオリアが情報圧縮と意味付与という機能を果たしていることを理解しました。志向性が二段階のメカニズムで創発することも、主観的体験が三層構造の必然的帰結であることも説明しました。しかし、「なぜこの質感なのか」「他者に本当に意識があるのか」「異種の意識とは何なのか」——これらの問いには、原理的に答えがないのです。
それは方法論的限界ではなく、論理的限界です。問うこと自体が不可能な問い。これが「インポッシブル・プロブレム」の本質なのです。
最後に
私たちは、意識に浮かんだごく一部の情報を『自発的に選ばれた目的』と呼んでいます。しかし、その実態は脳の演算リソースの圧倒的な不足にあります。全情報を処理できないという物理的制約下で、記憶というフィルターをたまたま通過した断片的なデータが、行動を規定しているのが現実です。この『計算の完了』という事実が意識に到達した際、それを『自発的な目的の生成』とされる機械的処理が実行されているのに過ぎないのです。

認知の窓という制約
私たちは今、目に入るありとあらゆる物を「見て」いるのでしょうか...
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