私たちは日々、自らの意志で世界を見渡し、明確な目的を持って歩んでいると信じて疑いません。眼前の風景から「これを見よう」と決め、無数の選択肢から「あれを手に入れよう」と手を伸ばす心の動き。哲学において「志向性(intentionality)」と定義されるこの性質は、人間が主体的な存在であることの揺るぎない証左であるかのように見えます。
しかし、現代の脳科学や数理的な知見を積み重ねていくと、この強固な確信は静かに、しかし根本から揺らぎ始めます。
本稿では、前稿で確立した「主観は仮想世界の観察者である」という枠組み、および「決定論的世界観」の立場に基づき、志向性という現象を再考します。特に焦点を当てるのは、志向性の第一段階である「注意選択」——膨大な情報の中から、なぜ特定の対象に意識が向けられるのか、というメカニズムです。
意識の問題を「観察」と「決定」に分けるならば、本稿が扱うのは後者、すなわち「脳という物理システムが、いかにして特定の対象を仮想世界内で際立たせるか」という決定論的プロセスです。
仮想世界の中での認知
決定論的世界
本論に入る前に、基盤となる前提を明示します。
前稿「『自由意志』は幻想か」で論じた通り、脳内演算は主観が「決めた」と感じる前に既に完了しています。私たちが体験している視覚世界は、脳内演算による「結果報告」であり、外部環境そのものではありません。この事実は、人間観に根本的な修正を迫ります。意識とは、自由意志によって思考や行動を統率する「司令塔」ではありません。それは、巨大な演算装置である脳が導き出した処理結果を観察する「観察者」の役割を担っているに過ぎません。
前稿「意識の中の"自己"と"他者"」で示した通り、主観は常に仮想世界を見る立場にあり、決して仮想世界内の要素にはなりません。脳内演算によって仮想世界が構築され、主観がそれを観察する——この二層構造において、「志向性」もまた、演算の帰結として仮想世界内に現れる現象として位置づけられます。
この決定論的な視点に立てば、「志向性(対象に心を向けること)」は、主体が能動的に発揮する能力ではなくなります。むしろ、脳という物理システムが抱える構造的制約の下で、演算が積み重なった結果として必然的に生じる現象といえます。
離散化された仮想世界
私たちは物理世界をありのままに捉えていると信じていますが、実際には脳が過去の記憶に基づいて再構成した「仮想世界」の中に生きています。刻一刻と入力される知覚も、すべては記憶というフィルターを通して解釈され、この仮想世界へと統合されます。
脳に流れ込む感覚データは、本来、連続的に変化する膨大な情報の濁流であり、そのままでは処理不能です。リソースの限られた物理システムである脳が、このカオスを直接処理することは不可能です。
そこで脳は、前稿「存在を仮定するOS」で論じた通り、蓄積された記憶をテンプレートとして世界を解釈する「存在仮定OS」を駆動させます。このOSの役割は、情報の連続体に「リンゴ」や「人間」といった境界線を引き、世界を「離散的な個体」の集合へと変換することにあります。
離散化が探索を可能にする
この「離散化」には、認知における決定的な意味があります。連続的なデータ空間をそのまま探索することは、理論的には可能かもしれませんが、現在の神経科学の知見に基づく限り、古典的な計算機構では事実上不可能に近い課題です。
しかし、いったん世界が「個別の存在」として離散化されれば、探索という計算プロセスは劇的に実行可能になります。「リンゴA」「リンゴB」「ミカン」という離散的な選択肢の中から、過去の記憶に基づいて優先度を評価し、選択する——このアルゴリズムは、私たち人間にも理解可能な形式です。
実は、この「理解可能性」そのものが重要な示唆を含んでいます。私たちが離散的な探索アルゴリズムを容易に理解できるのは、私たち自身の認知が離散化された仮想世界の上で動作しているからかもしれません。逆に、連続データ空間での探索アルゴリズムを想像することが著しく困難なのは、私たちの認知システムがそもそもそのような連続性を直接扱うようには設計されていないためでしょう。
存在仮定OSによる離散化は、単なる情報の圧縮ではありません。計算論的な観点から見れば、それは、探索可能な認知空間を創出し、記憶に基づく最適化(記憶による深化で後述)を実行可能にする、認知アーキテクチャの根本的な基盤と解釈できます。
私たちが実感する「物体の存在」とは、生存のために脳が編み出した省エネ・高効率戦略としてのユーザー・インターフェースに他なりません。そして、この「離散化」こそが、志向性が向かうべき「対象」を生み出すだけでなく、その対象の中から特定のものを選び取るという「探索」を可能にする土台となります。
志向性は、何もない空虚な空間に生じるものではありません。存在仮定OSによって切り出された「存在」が配備され、かつ探索可能な構造を持つ仮想世界という情報空間において、初めて発動する機能なのです。
認知の窓
私たちは情報の洪水の中に生きています。膨大な情報を前にしながら、瞬時に「右に避けるか、左に避けるか」といった判断を下さなければなりません。ここでは、脳が直面する膨大な計算負荷を切り抜けるための物理的制約、「認知の窓」という概念について考えます。
次元の呪い
志向性の数理的構造を掘り下げると、一つの致命的な問題に突き当たります。対象や目的を記述するためのパラメータが多すぎると、探索や処理が事実上不可能になる「次元の呪い(Curse of Dimensionality)」です。
仮に、脳の処理を計算論的にモデル化するとすれば、「何を志向するか」を定量的に表すパラメータが必要になります。もし脳が環境中のあらゆる刺激(光の波長、音の周波数、微細な触覚など)をすべて独立した変数として扱えば、その組み合わせは天文学的な数に達し、計算資源は即座に枯渇します。
ここで重要になるのが、「存在仮定OS」による次元圧縮の戦略です。脳は膨大な感覚データをそのまま処理せず、「一つのリンゴ」や「一人の人間」という概念的な塊へとまとめあげます。このプロセスにより、無数の低次パラメータは、位置や色、輪郭といったわずか数個の高次パラメータへと劇的に圧縮されます。
この次元圧縮によって、脳はようやく「何かに注目する」という計算を実行可能なレベルまで情報の解像度を落とすことができます。しかし、極限まで効率化された仮想世界であっても、処理すべきデータ量は依然として膨大です。
ワーキングメモリの制約
心理学の研究によれば、人間が同時に保持・操作できる情報のチャンク(意味の塊)は、わずか4〜7個程度に限定されています。これは「ワーキングメモリの容量」として知られる物理的な制約です。
この制約は一見すると厳しすぎるように思えるかもしれません。しかし、これは存在仮定OSによる離散化と組み合わさることで、初めて意味を持ちます。
もし世界が連続的なデータのままであれば、4〜7個のチャンクという容量は無意味です。なぜなら、連続空間では「何を1チャンクとするか」すら定義できないからです。しかし、世界が「リンゴ」「人間」「椅子」といった離散的な存在に切り出されて初めて、「今、目の前には3つの対象がある」という数え方が可能になります。
この離散化によって、脳は限られたワーキングメモリを最大限に活用できるようになります。4〜7個という制約は、実は離散化された世界において最適化された容量なのかもしれません。
なぜ扱える変数がこれほど限られているのか。それは、変数の数が増えるほど探索空間が指数関数的に増大し、処理が不可能になる「次元の呪い」を避けるためです。
例えば、捕食者から逃げる場面を想定します。存在仮定OSによって「敵」「地形」「自分」といった離散的な存在が既に切り出されていたとしても、それぞれについて考慮すべき変数(「敵との距離」「速度」「自分の体力」など)は容易に10個を超えます。迅速に「逃げる」という統一された判断を下すには、並列処理された情報を劇的に圧縮し、収束させなければなりません。
ここで興味深いのは、変数の数と脳の物理的容量の関係です。仮に10個の変数を10段階で評価すれば、状態空間は100億(1010)通りになります。一方、脳の神経細胞は約1000億個(1011)です。もちろん、神経細胞1個が状態1つに対応するわけではありませんし、脳は判断以外にも膨大な処理を並行して行っています。
しかし、扱える変数が10個を超えると、たちまち状態空間が脳の物理的リソースと同じオーダーに達してしまうという事実は示唆的です。計算論的な観点から見れば、瞬時の判断を実現するためには、状態空間を脳が処理可能な規模に収める必要があり、そのためには同時に扱うパラメータ数を10個以下程度——すなわちワーキングメモリの容量——に制限せざるを得ないと考えることもできます。
ワーキングメモリの4〜7チャンクという制約は、認知心理学の実験から導かれた経験則です。しかし、それは単なる偶然の数字ではなく、脳という物理システムが次元の呪いを回避しながら瞬時の判断を実現するための、進化的に最適化された設計原理を反映している可能性があります。
つまり、ワーキングメモリの4〜7チャンクという制約は:
- 存在仮定OSによる離散化と相補的に機能し
- 次元の呪いを回避するための必然的な設計であり
- 瞬時の判断を可能にするためのボトルネック
として理解できます。この制約こそが、「認知の窓」の物理的実体なのです。
「選んでいる」のではなく「選べない」
このボトルネックこそが、志向性の正体を解明する鍵となります。
従来の問いは、「なぜ特定の対象Aを志向し、Bを選ばないのか」という、選択する主体の存在を前提としたものでした。しかし、ここでは発想の転換が必要です。
「なぜ特定の対象に注目するのか」ではなく、「限られたリソースゆえに、その瞬間に認知できる対象が極端に限定される」と考えます。
私たちは、世界を広く見渡した上で「これにしよう」と選んでいるわけではありません。認知の入り口(窓)があまりに狭いため、一度に一つの「存在」を捉えるのが限界なのです。視界に入るすべてを「存在」として認識できないのは、意志による選択の結果ではなく、脳の物理的なリソース不足によるものです。志向性の第一段階である「注意」とは、能動的な選択などではなく、この狭すぎる「認知の窓」という物理的制約がもたらす「情報の絞り込み」に他なりません。
注意の捕捉と深化
認知の窓は常に開いている
志向性の第一段階は、膨大な情報の中から特定の対象へと「注意」が向くプロセスです。ここで重要なのは、認知の窓は常に開いており、強弱を問わずあらゆる刺激を取り込み続けているという点です。
「認知の窓」は、強い刺激が来たときだけ開くゲートではありません。むしろ、この窓は絶え間なく情報を取り込み続けており、その瞬間に認知可能な範囲に入った刺激——それがどんなに微弱なものであっても——を次の処理段階へと送り出しています。
視界の隅の些細な動き、遠くで鳴った小さな音、ふと感じた違和感。微弱な刺激であっても、認知の窓を通過することがあります。重要なのは、この通過そのものは物理的・自動的なプロセスであり、主観による選択を経ていないということです。
サリエンシー
では、膨大な刺激の中で、何が認知の窓を通過しやすくするのでしょうか。ここで認知科学における「サリエンシー(saliency)」という概念が重要になります。
サリエンシーとは、直訳すれば「顕著性」「際立ちやすさ」を意味し、認知研究においては「周囲の環境と比較して、ある刺激がどれだけ目立つか」を表す指標として用いられます。
例えば、静止した風景の中で動くものは高いサリエンシーを持ちます。白い壁の中の赤い点、滑らかな表面の中の凹凸——これらは、周囲との「差異」によってサリエンシーが高まった刺激です。
脳科学の研究では、視覚野をはじめとする感覚野が、色、明度、方向、動きといった特徴の「対比(コントラスト)」を自動的に計算し、「サリエンシー・マップ」と呼ばれる一種の強度分布図を生成していることが明らかになっています。このマップは、「どの刺激が周囲より際立っているか」を数値化したものです。
このサリエンシーは、視覚に限定されません。静寂を破る大きな音(聴覚)、肌を刺す鋭い痛み(触覚)、あるいは不意に漂う香り(嗅覚)など、あらゆる感覚器からの「際立った信号」がサリエンシーとして機能します。
しかし、ここで誤解してはならないのは、サリエンシーの高い刺激が必ず志向性の対象になるわけではない、という点です。
サリエンシーが高いということは、その刺激が物理的・感覚的に「目立っている」ことを意味します。そして目立った刺激は、次の段階である「深化」のプロセスにおいて、記憶との照合がより活性化しやすい傾向があります。しかし、それはあくまで「確率が高い」というだけであり、決定的ではありません。
逆に、サリエンシーの低い刺激——つまり物理的にはほとんど目立たない刺激——であっても、それが過去の記憶と偶然に深く共鳴すれば、そこから意味が爆発的に立ち上がることがあります。
偶然の共鳴
ふと見上げた雲の形が、亡くなった祖母の横顔に見えた瞬間。誰かの何気ない一言が、長年忘れていた記憶を呼び覚ます瞬間。
これらの体験において、最初の刺激(雲の形、何気ない一言)は、物理的なサリエンシーとしては決して高くありません。周囲と比べて特別に目立っているわけでもなく、強い刺激でもありません。しかし、その刺激が記憶という膨大なデータベースの中で偶然に「鍵と鍵穴」のように一致したとき、その対象は突如として圧倒的な意味を帯び、志向性の焦点となります。
この偶然性こそが、人間の認知の豊かさの源泉です。もし強いサリエンシーだけが志向性を引き起こすのであれば、私たちの意識は予測可能で単調なものになってしまうでしょう。しかし実際には、どんなに微細で取るに足らない刺激であっても、それが記憶と共鳴したとき、突然の洞察や創造的なひらめきを生むことがあるのです。
従来の注意研究では、サリエンシーの高い刺激が注意を「捕捉する(capture)」と考えられてきました。しかし本稿の立場では、サリエンシーは志向性の成立における一要因に過ぎず、最終的に何が意識の焦点となるかは、記憶との照合という第二段階の処理によって決定されるのです。
記憶による深化
認知の窓を通過した刺激は、すべて第二段階である「注意の深化」へと送られます。しかし、すべての刺激が深化するわけではありません。
通過した刺激は、脳内で過去の記憶と即座に照合されます。ここで記憶との「共鳴」が起きなければ、その刺激は意味を持たないまま窓の中にとどまることはできません。その結果、別の刺激が認知の窓に流入してきます。逆に、記憶との一致度が高ければ、その刺激に対する処理が深化し、意味が立ち上がり始めます。
前稿「確率的因果律と志向性」で詳述した通り、この深化のプロセスは、予測符号化理論(Predictive Coding Theory)の枠組みで理解することができます。具体的には、脳が「この切り口で思考を続けることは有効か」という予測を立て、得られた結果(報酬)との誤差に基づいて内部モデルを更新していくプロセスです。
離散確率分布を用いた数値シミュレーションにより、このメカニズムが実際に機能しうることを示しました。特定の対象を注視し続ける中で、数理モデル上では「この対象のどの側面が有益か」という確率分布が絶えず更新され、予測誤差を小さくする方向への選択が起こります。この過程を、思考が特定の方向へと「向かっていく」プロセスに重ね合わせることができるのです。
ただし、この予測符号化モデルは、脳の実際の神経メカニズムを直接記述するものではなく、観察される現象を数理的に整理するための一つの有力な枠組みです。脳が実際にどのような物理的プロセスでこの「予測」や「誤差修正」を実現しているかは、神経科学における活発な研究領域です。
このとき、最初の刺激のサリエンシーの強弱は、もはや決定的な要因ではありません。記憶との共鳴の深さこそが、その刺激が「志向性の対象」として立ち上がるかどうかを決定するのです。
この段階における志向性は、もはや単なる「注意」ではなく、記憶という重力によって軌道が決定され、演算の反復によって加速していく「知的な慣性」のようなものといえます。私たちは自らの意志で思考を深めていると主観的には感じますが、計算論的に解釈すれば、脳が最も整合性の高い解釈へと辿り着くためのプロセスを実行していると見ることができます。
志向性とは未来に引かれる力ではなく、過去の蓄積が現在の処理を特定の方向へと押し出す「物理的なバイアス」なのです。
志向性という名の物理的創発
本論を通じて示してきたのは、私たちが「意志」と呼んでいるものが、「物理的制約をもつ記憶の演算」として捉えられるということです。
志向性は、何もない空間に突如として現れる魔法ではありません。計算論的モデルとして、以下の三つのステップを経て立ち現れる創発現象として理解できます。
- 情報の離散化
- 「存在仮定OS」が、連続的な情報の海から、処理可能な個別の「存在」を切り出す。
- 刺激の流入
- 極めて狭い「認知の窓」を、刺激が絶え間なく流入する。次段階のプロセスが持続する限り「窓」の内側にとどまり、持続しないものは退出する。
- 演算による深化
- 「窓」の内側に入った刺激に対し、過去の記憶との照合が行われる。記憶と共鳴した刺激は処理が深化し、持続的な方向性(志向性)が顕在化する。
私たちが主観的に感じる「自ら注目し、追求している」という実感は、脳という物理システムが生存のためにリソースを一点に集中させ、演算を加速させている状態を、主観が仮想世界として観察した結果に過ぎないのかもしれません。
「選んでいる」のではなく「浮かび上がる」
この視点は、人間を無機質な機械と見なすものではありません。むしろ、進化と経験が積み上げた「記憶」という重力が、いかにして複雑な世界に筋道を立て、意味を紡ぎ出しているのかを記述するものです。
本稿で示したのは、志向性の機能的側面——脳内演算が仮想世界内で特定の対象を際立たせるメカニズム——です。しかし、なぜその選択が「何かに向かっている」という主観的体験として現れるのか。この問いは、主観による観察という、意識のより根源的な問題に属します。
注意選択という決定論的プロセスによって、仮想世界内で特定の対象が際立つ。主観がその仮想世界を観察することで、「何かに向かっている」という体験が生じる。この二層構造の理解こそが、志向性という現象の全体像を捉える鍵となるのです。
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