私たちは毎日、世界を「そこにあるもの」として認識して生きています。コーヒーカップ、隣を歩く人、車の音——これらすべてを、自然に「存在するもの」として受け取っています。
しかし、以前の記事で詳しく論じたように、現代物理学は、この「存在」という概念そのものが実は仮定にすぎないことを示しています。世界の本質は相互作用のパターンであり、私たちが「物」として感じているものは、脳が複雑な関係性を処理するために作り出した認知的な枠組みです。また、進化の過程で、私たちの脳は安定的な相互作用パターンを「物体」として認識するシステムを発達させました。

相互作用を「物」と見る脳
私たちが日常的に「存在」と呼んでいるものは、実際には世界に...
この「存在を仮定するOS」という考え方を、過去の知見と対比させて考えてみます。前回の記事では、哲学的な考察から、現象学と深くかかわっていることが示唆されました。

現象学と「存在を仮定するOS」
以前の記事で提案した 「存在を仮定するOS」 というアイデアを...
ここでは、神経科学の知見と合わせて検討してみましょう。
脳が「存在」を構築する仕組み
神経科学の研究から、「存在の認識」は単一の脳領域ではなく、複数の神経ネットワークが協調して作り出している現象であることが分かっています。
この過程で中心的な役割を果たすのは、前頭前皮質の予測機能です。脳は受動的に感覚情報を受け取るだけでなく、常に「次に何が起こるか」を予測し、その予測と実際の入力を照合しています。椅子の一部しか見えなくても「これは椅子だ」と即座に判断できるのは、脳が過去の経験から椅子の全体像を予測し、部分的な視覚情報を補完しているからです。
視覚処理においては、「どこに何があるか」を処理する背側経路と「それが何であるか」を識別する腹側経路が並行して機能しています。前者が空間的な「存在感」の構築に、後者が対象の意味理解に、それぞれ重要な役割を担っています。
重要なのは、このシステムが多感覚情報の統合によって「存在」を判定していることです。具体的には、視覚からの色彩や形状情報、触覚からの質感や重量感、さらには聴覚・嗅覚・味覚からの付随情報が、記憶に蓄積された過去のパターンと照合され、十分な一致度が確認された時に「存在」として認識されます。
この過程は極めて迅速で、通常は意識される前に完了しています。つまり、私たちが「そこに何かがある」と感じる時、それは既に脳内での高度な情報処理と統合の結果なのです。
強制的に仮定された「存在」
この認知システムの特性は、幻覚現象を通じてより明確に理解できます。従来、幻覚は単純な認知の異常として説明されがちでしたが、実際には「存在仮定システム」が不完全な入力情報を無理やり統合しようとする現象として捉える方が適切です。
統合失調症で報告される「黒い虫が這い回って見える」という幻視を例に考えてみましょう。この現象は、視覚系の情報処理に何らかの障害が生じ、断片的で不正確な信号が脳に送られている状態で発生すると考えられています。
なぜ「黒い虫」という特定の形で現れるのでしょうか。視野の各所で散発的に発生する暗色の検出信号、視覚ノイズによる微細な明暗変化、眼球の微細な動きによって生じる影の揺らぎなど、断片的で不安定な暗色情報が視覚系に送られている状態を想像してください。
「存在仮定システム」は、このようなバラバラの暗色断片に対しても「何らかの存在」を構築しようと試みます。システムは「入力された情報は現実の何かを反映している」という基本前提で動作するため、各所に散らばる暗色の点や線状の変化を、最も説明しやすい形として「小さくて暗い動く物体=虫」に統合してしまうのです。断片的な暗色情報の時間的・空間的な不規則性が、「蠢く動き」として解釈されるというわけです。
この現象は、私たちの認知システムが持つ「統合への強い傾向」を示しています。正常な環境下では生存に有利なこの特性が、異常な入力に対しては誤った現実を構築してしまうという副作用を持つのです。
「存在」と「意味」の分離
神経心理学の症例研究は、「存在の認識」と「意味の理解」が独立したシステムであることを明確に示しています。
視覚失認の患者では、「存在仮定システム」は正常に機能しており、物体を「何かがそこにある」と適切に認識できます。しかし、その存在が何であるか、どのような機能を持つかという関係性の理解に障害が生じています。患者は「そこに赤くて丸い何かがある」ことは分かっても、それが「リンゴ」であり「食べられるもの」であることが理解できないのです。
相貌失認でも同様の分離が見られます。患者は顔を「顔という形状パターンを持つ何か」としては適切に認識できており、存在の仮定は正常に働いています。しかし、それが誰の顔で、自分とどのような関係にある人物かという、存在と自分との関係性の認知に困難が生じているのです。
これらの症例が明確に示すのは、「存在の仮定」と「関係性の認知」が別々のシステムとして機能しているということです。前者は適切に働いているにもかかわらず、後者に障害が生じることで、世界が「意味のない形状の集合」として体験されてしまうのです。
存在統合機能の困難
一方で、「存在仮定システム」そのものに困難を抱える場合の体験を検討することで、このシステムの根本的な重要性がより深く理解できます。自閉スペクトラム症の一部の方々が報告する感覚体験は、この点で重要な洞察を提供します。
一部の自閉スペクトラム症の方は、多様な感覚情報が適切な「対象」に統合されることなく、生の感覚データとして意識に流入する体験を報告されています。これは失認症とは異なり、「存在の仮定」の段階で困難が生じている状態です。視覚、聴覚、触覚、嗅覚といった情報が「コップ」「人の声」「テーブルの感触」といった個別の存在にまとめられず、区別のない感覚の洪水として体験されることがあるのです。
通常の認知では、様々な感覚チャンネルからの情報が自動的に統合され、処理可能な「存在単位」に整理されます。しかし、この統合機能が十分に働かない場合、膨大な関係性情報が未整理のまま意識に押し寄せ、深刻な認知的負荷を生じさせます。
この現象は、「存在仮定システム」が単なる認識の効率化を超えて、複雑な現実を人間が処理可能な形に変換する根本的な「認知フィルター」として機能していることを示しています。
関係性認知の優位性
興味深いことに、発達心理学と進化生物学の研究は、関係性の理解が「存在認識」よりも発達的・進化的に先行している可能性を示唆しています。
乳児の発達研究によれば、生後数ヶ月の段階で、明確な物体認識や言語理解に先立って、養育者の表情変化、声のトーン、視線の方向といった社会的関係性の手がかりに敏感に反応することが確認されています。また、他者との相互作用のリズムやタイミングを読み取る能力も早期に発現します。
進化的な観点からも、単純な生物が複雑な「存在認識」を行っているとは考えにくい一方で、環境との相互作用には確実に適応しています。細菌が化学勾配に応じて移動方向を変える行動は、明確な「物体」概念を前提とせず、純粋に関係的情報への応答として理解できます。
これらの証拠は、関係性の理解こそが認知の最も基本的な層であり、「存在仮定システム」は人間がより複雑な関係性ネットワークを効率的に処理するために二次的に発達させた認知ツールである可能性を示しています。
現代社会における含意
「存在仮定システム」の理解は、現代の技術社会においても重要な含意を持ちます。
バーチャルリアリティ、ディープフェイク技術、高精度CGなどの人工的刺激に私たちが容易に騙されるのは、このシステムの動作原理に起因しています。システムは相互作用パターンの安定性と予測可能性のみを基準として「存在」を判定するため、十分に精巧な人工刺激と本物を区別することはできません。
また、オンライン環境での人間関係やAIとの対話において、私たちが相手に「存在感」や「人格」を感じてしまう現象も、同じメカニズムで説明できます。これは技術の進歩に伴って、ますます重要な課題となるでしょう。
構築された現実としての「存在」
私たちが当然視している「存在」は、物理的には相互作用パターンの安定性であり、認知的には脳の高度な情報統合プロセスの産物でした。この「存在仮定システム」は、生存に有利な進化的適応として発達した認知戦略です。
神経科学的な分析により、このシステムは前頭前皮質の予測機能と感覚処理領域の連携によって実現され、多感覚情報の統合を通じて安定的なパターンを「実体」として構築することが明らかになりました。幻覚現象の検討からは、このシステムが不完全な情報に対しても強制的に「存在」を構築しようとする特性を持つことが分かります。
失認症や自閉スペクトラム症の症例は、「存在認識」と「関係性理解」が独立したシステムであることを示しています。失認症では存在の仮定は正常に機能するものの関係性認知に障害が生じ、自閉スペクトラム症の一部では存在統合そのものに困難が生じることで、それぞれ異なる認知的困難が現れるのです。
同時に、発達・進化的証拠から、関係性の理解こそが認知の根本であり、「存在仮定システム」はその上に構築された二次的な仕組みである可能性も浮かび上がりました。
この理解は、私たちの現実認識が客観的事実の単純な反映ではなく、生存と適応のために最適化された認知的構築物であることを明らかにします。AI技術と仮想現実が急速に発達する現代において、この認知システムの特性と限界を理解することは、より柔軟で批判的な世界理解を獲得するための重要な基盤となるでしょう。

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