私たちは日常のなかで、「正しい」「間違っている」といった判断を当たり前のように行っています。そうした判断が成立する背景には、私たちが「対象となる何かが確かに“そこにある”」と感じていることがあります。つまり、多くの思考は、「存在するものがある」という前提に支えられているのです。
たとえば、ある意見を「正しい」と主張するとき、「何か」対象物を思いうかべて、その条件下で「何か」が実際に存在できると考えます。逆に「それは違う」と言うときでも、否定の対象となる「何か」が存在する場合にどうなるかを想定します。このように、肯定も否定も、いずれも「存在」を出発点にしているのです。
この構造は、近代哲学にも明確に表れています。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と述べ、すべてを疑った果てに、思考する自己の存在だけは否定できないとしました。そしてその自己の確実性を支えるために、「完全な存在者」としての神の存在を論じました。アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言ったのも、「この世界には理にかなった秩序があるはずだ」という確信に基づいています。こうした立場はいずれも、「絶対に誤りのないもの=不可謬性」への強い志向を示しています。

「絶対の正しさ」と「わからなさ」
私たち人間は、日々の暮らしの中で、...
しかし、このような「存在を前提とした認識」に限界があると私は感じています。たとえば量子論では、粒子は観測されるまでは状態が定まらず、「ある」とも「ない」とも言えません。つまり、何かがそこに「ある」かどうかは、それ自体として確定されているのではなく、観測という関係のなかで初めて定まる。存在とは、孤立した実体ではなく、関係のなかで現れてくるものだと考えた方が筋が通るのです。

相互作用を「物」と見る脳
私たちが日常的に「存在」と呼んでいるものは、実際には...
そう捉えなおしたとき、私たちが不可謬性を求めたくなる心理の背景も見えてきます。人間の認知は、感覚器官を通じて世界を捉える以上、「そこに確かにある」と感じられるものにしか信頼を置けない傾向があります。そのため、「間違いのないもの」を求め、「それに立脚すれば安心できる」と感じてしまうのです。けれども、これはあくまで人間の認知構造に根ざした“必要性”であって、世界の本質を表しているわけではありません。
私は、こうした不可謬性にすがる思考から少し距離を置きたいと考えています。そのうえで、代わりにどのような態度が必要かといえば、それが「動的な可謬性」という考え方です。これは、すべての判断や理解が、関係性の中で常に変化しうるものだという前提に立ち、状況に応じて判断を更新し続けていくという姿勢です。
ここで誤解してほしくないのは、「すべてが相対的だから、何を考えてもよい」のではないということです。むしろその逆で、人間の認知には限界があるからこそ、特定の見方を絶対視せず、関係に応じて判断を柔軟に組み替えていく努力が求められるということなのです。
たとえば、ある価値観が特定の文脈では有効に働いていたとしても、それが別の文脈では害をなすこともある。そのとき、「もともと正しかったはずだ」と固執するのではなく、状況を捉え直し、立場を調整する姿勢が大切です。これは場当たり的な相対主義ではなく、関係の中で責任をもって応答しようとする態度です。
ただし、この「動的な可謬性」という考え方そのものも、決して“絶対に正しい”とは言えません。むしろ、それを一つの固定的な正しさとしてしまった瞬間に、この考えの本質──「変わりうるものとしての判断」──が損なわれてしまいます。だから私は、これさえも「問い続ける」対象として捉えています。
問い続けるということは、何もかも疑って立ち止まることではありません。むしろ、「いま・ここ」で生じている関係に応答しながら、仮の理解を一時的に引き受けつつ、変化のなかで考え続けていくという実践です。決めつけるのでもなく、すべてを手放すのでもなく、常に揺らぎの中でバランスを取り続けるということです。
私たちは、「確かさ」にすがりたくなる生き物です。けれども、その「確かさ」はしばしば、私たち自身の認知の構造がつくり出した安心にすぎません。だからこそ私は、確かさをいったん手放してみる勇気──そのなかで問い続け、関係に応じて判断を見直していく態度こそが、いまの時代にふさわしい知のあり方だと考えています。

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