「絶対の正しさ」と「わからなさ」

2025/05/06

column

私たち人間は、日々の暮らしの中で、さまざまな不安や恐怖を抱えながら生きています。科学が発展し、情報にあふれる現代においても、「先のことがわからない」「何が正しいのか判断できない」といった不確実さは、私たちを悩ませ続けます。だからこそ、人は「絶対に正しいことがある」と信じたくなるのかもしれません。

古くから続く宗教の多くは、こうした不安に対処する手段として生まれました。「神は真理を知っている」「世界には意味がある」といった物語や、安心感を与える儀式が、人々を支えてきたのです。こうした「間違いようのない正しさ」のことを、「不可謬性(ふかびゅうせい)」と呼びます。宗教や神話の中で語られる「絶対的な正しさ」は、私たちを不安から守ってくれる一方で、注意深く扱わなければならない側面もあります。というのも、こうした「正しさ」は、時として悪意ある人によって利用されたり、あるいは無意識のうちに私たち自身が思考を止める口実になってしまったりするからです。

このような背景をふまえると、私たちは一歩立ち止まり、こう問い直す必要があります。「本当に『絶対に正しいこと』などあるのだろうか?」

実は、私たちが世界をどれだけ理解したつもりでいても、自分の見ている世界がすべて頭の中のイメージにすぎない、という事実に気づく瞬間があります。自分が確かに「生きている」「存在している」と感じられるのは、他者と関わる中に身を置いているときだけかもしれません。それ以外のすべては、自分の思い込みにすぎない可能性があります。

このような考え方に基づく姿勢を、「可謬性(かびゅうせい)」といいます。「どんな考えでも間違っているかもしれない」と前提にすることで、私たちはより柔軟に、より謙虚に世界に向き合おうとするのです。

とはいえ、「すべては間違っているかもしれない」と言い切ってしまうと、それすらもまた「間違いのない正しさ」を主張していることになります。つまり、可謬性の立場自体が、不可謬性を帯びてしまうという矛盾をはらんでいるのです。「何でも知っている」と思い込むのは傲慢ですが、「何も知りえない」と断言することも、実は一つの硬直した立場なのです。

この問題を考えるヒントとして、「関係性と存在」という哲学的な視点があります。以前、私は「関係性こそが世界の本質であり、存在はそれを理解するために私たちの脳が仮定しているものではないか」という議論を紹介しました。

仮定としての存在

仮定としての存在

誰しも、自分自身の存在を疑う人はいないだろう。一方で、我々が...

もし、「形のある何か」がまず存在し、その間に関係が生じていると考えるならば、存在が先にあり、関係性はその結果だといえます。この立場では、「存在すること」が絶対的な前提=不可謬性になります。しかし、逆に「関係性がまずあり、それを理解するために『存在』という仮定を置いている」と考えるなら、存在はあくまで便宜的なものであり、可謬性に立脚した考え方になります。

この点をわかりやすくするために、VR(仮想現実)の中に登場するキャラクターを想像してみましょう。私たちはそのキャラクターと対話し、関係を築くことができますが、「形のある実体」としてそのキャラクターが存在しているわけではありません。それはあくまで関係性の中に現れたものであり、「実在」は仮定にすぎないのです。

自然科学においても、似たような構図が見られます。たとえばアインシュタインの有名な式、E=mc2 。ここでは、エネルギー(E)と質量(m)が等価なものとして扱われます。質量は「形のある存在」を表しているように思われますが、より根源的には「エネルギーという関係性」の一形態であると考えられます。すべての質量はエネルギーに変換できますが、すべてのエネルギーが質量として表現されるわけではありません。この点からも、関係性がより基本的であることが示唆されます。

こうして見てくると、宗教や人生の実践も、「唯一の正しさ」に依存するものではなく、「わからなさを受け入れつつ、他者との関係の中でどう生きるか」を問い続ける営みであるべきだと思えてきます。理性は、物事を白か黒かで断じるためだけのものではありません。むしろ、私たちがあいまいさの中で誠実に生きていくための、心の道具なのです。


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