「わかっている」という思い込み

2025/06/25

column

長く続いている関係ほど、「この人のことはよくわかっている」と思いやすくなります。

あるいは、少し様子が違って見えても、「きっと疲れているだけだろう」「そのうち元に戻る」と、あまり深く考えずにやりすごしてしまうことがあります。

しかし、それは「正常性バイアス」と呼ばれる心の働きと関係しているかもしれません。

正常性バイアスとは、災害などの非常事態に直面したとき、人は「これは特別なことではない」「いつも通りだ」と思い込んでしまう傾向のことです。

正常性バイアス - Wikipedia

火事や洪水、事故のような明らかな異変が起きていても、「自分は大丈夫」「まさか本当にそんなことにはならない」と考えてしまいます。
そして避難が遅れたり、被害が大きくなったりすることがあります。

このバイアスは、自然災害や事故に限らず、人間関係の中でも静かに作用します。

「わかっている」とは思っていたが…

たとえば、ある夫婦(Bさん夫婦とします)の話があります。

表面上は何の問題もないように見えていましたが、あるときから、Bさんのパートナーの表情や口数が少しずつ変化していきました。
Bさんは、それに気づいてはいたものの、「疲れているのだろう」「きっと忙しいのだろう」と深く考えなかったそうです。

そしてある日、Bさんは突然こう告げられました。

「ずっと我慢してきたんだよ」

その言葉を聞いて、Bさんは、初めて自分の思い込みに気づいたといいます。
ずっと「私はこの人のことをわかっている」と思っていました。
けれど、それは「わかっていたかった」だけで、本当はほとんど見えていなかったのではないか、と。

主語を外して見直してみる

こうしたとき、「私はわかっている」「私は大丈夫だと思っていた」といった言葉の主語を外してみると、印象が少し変わります。

「わかっている」
「大丈夫だと思っていた」

そこには、「ある人がそう思っていた」という姿があらわれます。

それは、自分自身に向けられた確信ではなく、一つの感情の瞬間的な表現として見えてきます。

つまり、「自分という存在全体の真実」ではなく、「そう感じていた時間の、ある解釈」に過ぎなかったのかもしれません。

すでに兆しはあった

Bさんが後になって振り返ると、小さなサインはたしかにあったそうです。

返事がそっけなくなった。視線が合わないことが増えた。笑い声が減った。
それらはほんのわずかな変化でしたが、あとから見ればすべてがつながっていたと言います。

けれどそのときは、「些細なこと」「一時的なこと」として処理してしまっていたのです。
まるで地震の揺れを「たいしたことはない」と思って見逃すように、心の揺れも「いつもの延長」として片づけていたのかもしれません。

「主語を外す」は、自分を責めるためではない

主語を外すというのは、自分を責めるための技術ではありません。
むしろ、「自分の考えがすべてだと思い込んでいたかもしれない」と、一歩下がって眺めるための試みです。

「大丈夫だと思っていた」
「わかっていたつもりだった」

そうした言葉を主語なしで捉えることで、「本当にそうだったのか?」という問いが生まれます。

その問いは、過去を否定するためではなく、これからの関係を丁寧に見直すための扉になるのです。

まとめ

「私はわかっている」という言葉は、ときに誤解を固定化させます。
けれど、「わかっていたつもりだった」と言い換えられたとき、人はそこから学び直すことができるのではないでしょうか。

主語を外すという、小さな思考の工夫。
それは、自分の内側でこだましていた声に距離を取り、相手の沈黙の中にあったサインに目を向けるためのひとつの方法なのです。

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