「私は」の呪縛

2025/06/24

column

落ち込んだとき、人は「私はダメだ」「価値がない」といった思考にとらわれがちです。こうした言葉では、“私”という主語が否定的な内容に直結しているため、自分のすべてが問題なのだという感覚が強まりやすくなります。

しかし、こうした思考は多くの場合、ある出来事への一時的な感情的反応にすぎません。それを「自分自身の本質」や「人生の評価」と結びつけてしまうことで、思考は重く、行き詰まったものになります。

そこで、「主語を外して考えてみる」という方法があります。主語を取り払うことで、思考の構造を一歩引いて眺めることができ、どこにどんな意味づけや思い込みが含まれていたのかが、見えやすくなります。

頑張ったのに、という思いが…

たとえば、大学入試に失敗したAさんがいたとします。長い期間努力を重ねてきたにもかかわらず、希望していた大学に届かず、落ち込んでいる。そんなとき、心に浮かんでくるのが次のような言葉かもしれません。

「私は頭が悪いから、どれだけ努力しても無理なんだ」

この言葉には、自己に対する評価(「頭が悪い」)と、将来への断定(「どれだけ努力しても無理」)が含まれています。そしてそれらが合わさることで、「希望の大学に届かなかった」という一つの出来事が、「自分には根本的な能力がない」「努力しても無駄だ」といった広い意味づけにまで拡大されているのです。

主語を外して見えるもの

ここで主語の「私は」を外してみます。

「頭が悪いから、どれだけ努力しても無理なんだ」

一見すると大きな変化はないように思えるかもしれません。しかし、「私は」という主語がないことで、その内容は自分自身に向けられた言葉ではなく、ある人が、そう思っている瞬間的な感情の表現に見えてきます。つまり、それは「自分そのもの」ではなく、「今、この状況で出てきた思考」だと捉え直すことができるのです。

根拠はありますか?

そこからさらに考えてみましょう。

「頭が悪い」という評価は、何を根拠にしているのでしょうか。模試の結果?過去の成績?一度の失敗? それは「知能の欠如」を意味しているのか、それとも単に「準備不足」「やり方が合っていなかった」ということなのか。

また、「どれだけ努力しても無理」という断定には、根拠があるでしょうか。方法や環境を変えた場合でも同じなのか。もう一年時間をかけても結果は変わらないのか。実際には、それを確かめる前に「無理だ」と思い込んでしまっているだけかもしれません。

さらに、「希望の大学に届かなかった」ことが、そのまま「人生の失敗」につながるのかも冷静に考える必要があります。確かに、落ち込むのは自然なことです。しかし、大学というのは人生の中での一つの段階にすぎません。そこに届かなかったからといって、人格や将来がすべて否定される理由にはならないはずです。

まとめ

主語を外すことは、感情を否定することではありません。そうではなく、その感情がどんな言葉に乗って現れたのかを見きわめ、言葉の構造を整理しなおすための手がかりです。

この事案は、認知の歪みの中でも「全か無かの思考」や「過度の一般化」というもので、一つの出来事を自分の全人格に結びつけてしまう思考パターンです。

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そして時に、「自分はこの出来事に、思っていた以上に強くこだわっていたのかもしれない」と気づくことがあります。 それが、思考の幅を広げる小さなきっかけになることもあります。

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