権威を脱いだ神仏の姿

2025/07/30

column

前回の記事「神仏の実在性を超えて」では、世界の本質を「存在」ではなく「関係」として捉える立場から、神仏の実在性を問う従来の枠組みを見直す必要性について論じました。そこで提示したのは、神仏を「象徴」として位置づけることの重要性でした。象徴は人生の方向性を指し示す旗であり、人間が不完全な存在でありながらも「より善く生きる」ための指針を提供するものです。

神仏の実在性を超えて

神仏の実在性を超えて

「神仏は存在するのか?」この問いは、古代から人類が抱えてきた...

本稿では、この象徴的神仏観をさらに発展させ、象徴としての神仏が具体的にどのような性格を持ち、どのように機能すべきかを詳しく検討します。従来の超越的神仏観とは根本的に異なる、現代にふさわしい神仏像を探求することで、科学的世界観と宗教的体験を両立させる新たな道筋を示したいと思います。

「象徴」とは

まず、ここで用いる「象徴」の概念を明確にしておく必要があります。象徴には複数の種類がありますが、ここで論じるのは視覚的表現を通じた象徴ではありません。むしろ日本国憲法における天皇の位置づけに近い概念です。憲法第一条では、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と定められていますが、これは天皇の外見や行動が直接的に国家や国民を表現するという意味ではありません。

(ここで「象徴」の概念の例で天皇を出していますが、日本国憲法下での天皇の位置づけとしての「象徴」という概念が、私が主張する「神仏の象徴」という概念の位置づけとよく似ているということから例に出しています。戦前の天皇を神格化していた思想とは全く無関係です。過去および現在の天皇制に対する何らかの意見表明ではありません。誤解のないようにお願いいたします。)

この場合の象徴とは、抽象的な価値や理念を「体現し、集約する存在」として機能するものです。天皇という存在を通じて、人々は日本という国家の継続性や国民としてのアイデンティティを確認し、共有することができます。天皇の実際の政治的権力や個人的資質とは独立して、象徴としての機能が成立しているのです。

神仏を象徴として理解するとは、まさにこのような意味においてです。神仏は、人間の精神的・倫理的な理想や価値を体現し集約する存在として機能します。その超自然的な実在性や具体的な姿形とは独立して、人々は神仏という存在を通じて、慈悲・智慧・正義・誠実といった価値を確認し、それに向かって歩む方向性を見出すことができるのです。

このような象徴理解において重要なのは、象徴が単なる「比喩」や「たとえ話」ではないということです。象徴は、人間の意識と行動に実際的な影響を与える「実働する表象」として機能します。それは個人の内面的成長を促し、共同体の価値観を形成し、具体的な行動指針を提供する力を持ちます。

従来の超越的神仏観

従来の宗教観では、神仏は絶対的な力を持つ超越的存在として位置づけられてきました。しかし、このような理解には限界があります。絶対的な存在は人間の理解を超えており、結果として信仰は盲従か拒絶かという極端な選択を迫られがちです。また、超越的な神仏は往々にして権威的で威圧的な性格を帯び、信者に従属を要求する構造を生み出します。

象徴的神仏とは

これに対し、象徴としての神仏は根本的に異なる性格を持ちます。それは親しみやすさと共感可能性に特徴づけられ、「権威を脱ぎ捨てた神仏」として現れます。このような神仏は、人を支配するのではなく、むしろ人の内面的成長を促す存在として機能します。

象徴的神仏が有効に機能するためには、以下の条件が重要になります。

弱さを内包すること

象徴としての神仏は、完璧な強さではなく、むしろ弱さや迷いを抱えた存在として描かれる必要があります。釈尊が苦行を退けたこと、イエスが十字架で苦悩したこと、日蓮が迫害に耐えたこと—これらは完璧さの証明ではなく、人間的な限界の中で理想を追求した姿として理解できます。このような「弱さを持つ神仏」は、人々に共感可能性を与え、「自分もそうありたい」という願いを喚起します。

裁かない存在であること

象徴的神仏は、人を善悪で分類したり、正義の名の下に処罰したりしません。むしろ地蔵菩薩のように、ただそこに「在る」ことで安らぎを与える存在として機能します。このような非審判的な性格は、信条や立場の違いを超えて、人々の心に受け入れられる可能性を持ちます。

日常性に根ざすこと

象徴は特別な場所に鎮座するものではなく、日常生活の中に現れるものでなければなりません。台所での作業中、夕暮れの道、街角の仏像—そうした何気ない瞬間に感じられる神聖さこそが、象徴としての神仏の本来的な姿です。これは宗教を特権的な領域から解放し、生活全体を宗教的な意味で満たす可能性を開きます。

到達可能な理想であること

象徴は理想を示すものですが、その理想があまりに高遠であれば、人は諦めてしまいます。効果的な象徴は「少し先を歩く存在」として、努力すれば到達可能な範囲に理想を設定します。これにより、象徴は絶望ではなく希望を与える存在となります。

内的必要性から生まれること

最も重要なのは、この象徴が外的権威によって強制されるものではなく、個人の内的な必要性から立ち上がるものだという点です。他者への誇示や組織への忠誠のためではなく、自己の問いや願いに応答するために神仏を象徴として立てる—これが真の信仰の出発点となります。

歴史的視点から

このような象徴観は、宗教史的にも裏づけを見出すことができます。釈迦やイエス・キリストなど多くの宗教創始者たちは、後世に神格化される以前は、一人の人間として苦悩し、模索していた存在でした。彼らの神格化は、多くの場合、教団の権威確立や教義の正当化という後世の必要によるものです。

したがって、「象徴としての神仏を立てる」という行為は、信仰の原始的で純粋な形への回帰として理解できます。それは制度化された宗教の権威構造から自由になり、個人の内面的探求として信仰を再構築する試みなのです。

現代的意義

現代社会において、このような象徴的神仏観は特別な意義を持ちます。科学的世界観が支配的となった現在、文字通りの超自然的存在としての神仏は多くの人にとって受け入れ難いものとなっています。しかし、象徴として理解された神仏は、科学的世界観と両立しながら、人間の精神的な需要に応答することができます。

象徴的神仏は、絶対的真理の提供者ではなく、自己探求のパートナーとして機能します。それは外部からの救済を約束するのではなく、内面からの成長を促進する存在です。このような理解に立つとき、信仰は依存的な関係ではなく、創造的で自律的な営みとなります。

さいごに

神仏を象徴として理解することは、宗教的体験を個人の内面的な現実として捉え直すことを意味します。それは神仏の「実在性」を否定するものではなく、むしろその意味と機能を現代的な文脈で再構築する試みです。このような象徴的神仏観によって、現代人もまた、科学的合理性と精神的探求を両立させながら、豊かな宗教的人生を送ることが可能になるでしょう。


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