先日、ある知人から、職場でのちょっとした出来事について話を聞きました。 どこにでもありそうな話ですが、あとになっていろいろ考えさせられた内容でした。
小さな不満
知人の職場では、最近ある若手社員(仮にY君)が目立っているそうです。新しいプロジェクトのメンバーに選ばれ、会議でもよく名前が挙がる。そんな様子を見て、同僚のFさんがぽつりと口にしたそうです。
「部長は、あの子だけひいきしているんです」
最初は気のせいと思う程度だったそうですが、一度そう思い始めると、まわりの出来事がすべて“その証拠”のように見えてきたといいます。
「部長は、またY君と相談してる」プロジェクトが成功してY君が褒められれば
「また部長はY君を特別扱いか」と感じてしまう。
Fさんはまじめに仕事をこなしてきたという自負がありました。だからこそ、「なぜ自分じゃないのか」「なぜあの子ばかり」という思いが、少しずつ「部長のひいき」という見方に形を変えていったのかもしれません。
一言のちから
そのとき、私の知人はFさんにこんなふうに言ったそうです。
「ふーん……そうなんだ。そうかもしれないけど、“そう見える”だけということもあるよ。」
Fさんは、若干戸惑いながらも、これ以上反応することはなかったそうです。しかし、その言葉がどこかに引っかかったのか、後日ふたたび話をしてくれたそうです。
「この前の件、ちょっと気になってY君の働きぶりを見てたんです。そしたら、毎朝誰よりも早く来て資料を作ってて、指示される前に自分から動いてて……なんていうか、自分、そういうの見えてなかっただけかもしれませんね」
確証バイアスは誰にでも起こる
この話を聞いたとき、私は「確証バイアス」という言葉を思い出しました。人は、自分の思い込みに合う情報ばかりを拾い、それを“証拠”として強化してしまう傾向があります。しかも、それは無意識のうちに起こるので、自分ではなかなか気づけません。
Fさんのように、「もっと評価されたい」「報われたい」という気持ちがあるとき、その気持ちと現実のギャップを埋めるために、「誰かがひいきしている」という物語が生まれてしまうことがあります。
主語を外して視点を変える
こうしたとき、ひとつの手がかりになるのが「主語」です。
「部長はひいきしている」と言い切るとき、主語は「部長」。つまり、物事の原因は“相手の側にある”という前提が入っています。そして、その言い方をした瞬間に、心はその前提に引きずられていくのです。
でも、主語をいったん外してみると、言葉の向きを変えやすくなります。
「ひいきしている……ように見ていたのは、私?」
Fさんは、「ひいきしている」の主語は「部長」だと思い込んでいました。しかし、この文の最後に「ように見ていた」が隠れていて、真の主語が「私」だということに気づいたのです。Y君がしっかりやっていた事実を目の当たりにし、あらためて「私」を主語にしてFさん自身の気持ちを表してみました。
「私は、評価されていないように感じていた」
「私は、なんだかモヤモヤしていた」
Fさんは、そのとき初めて、自分の内側にあった期待や不安に気づくことができたのでしょう。もしかしたら、本当に「ひいき」があったのかもしれません。しかし、そこにとらわれていてもFさんには何の利益もないばかりか、Fさんの能力を発揮する機会を失ってしまいかねません。むしろ、ここで自分の気持ちに区切りをつけ、少しでも前向きな気持ちになることの方が大切だったと思います。
思い込みをほどく
本当に“そうだった”のか?
それとも、“そう見ていた”だけなのか?
主語を外して問い直すことで、自分の見方や感じ方に気づくことができます。それは、自分を縛っていた思い込みから少し自由になるための、一歩目になるのかもしれません。
Fさんの話は、そんな気づきのきっかけを教えてくれたように思います。

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